2025年3月16日「人の子が栄光を受ける時」木下淳夫 師

タイトル人の子が栄光を受ける時
聖書ヨハネ12:20~26
説教者木下淳夫師

 今日のテーマは、「人の子が栄光を受ける時」です。

 過越しの祭りを前にして、イエス様はエルサレムに入城されました。そして、イエス様は、十字架の死が近づいてきたことを宣言されました。今日は、イエス様が語られたみことばから、私たちが受けた恵みの大きさを再確認させていただきたいと願っています。

ヨハネの福音書12章20~22節

20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。

21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。

22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。

(新改訳第三版)

 過越しの祭りは、ユダヤ人の大切な祭りです。ユダヤ人たちは、この祭りのために遠くからもエルサレムにやって来ます。また、過越しの祭りには、ユダヤ人だけでなく、ギリシヤ人も幾人か集っていました。イエス様は、以前、囲いに属さないほかの羊があり、それをも導かなければならないとおっしゃっておられました。そのみことばが、この過越しの祭りで成就しています。このギリシヤ人たちは、ピリポの所に来て、イエス様に会いたいと頼みました。ピリポは、アンデレに話して、二人はイエス様のもとに行き、ギリシヤ人たちがイエス様に会いたいと言っていることを伝えました。

ヨハネの福音書12章23~26節

23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

(新改訳第三版)

 イエス様は、「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」と、おっしゃいました。イエス様は、父なる神様の栄光を現わすために、この世に遣わされ、福音を語り、多くの奇跡を行われました。そのすべては、イエス様ご自身がほめたたえられるためではなく、父なる神様が崇められるためです。しかし、エルサレムに入城されたイエス様は、人の子であるご自身が栄光をお受けになるその時が来たと宣言されました。イエス様がお受けになる栄光とは十字架です。イエス様は、群衆がイスラエルの王として出迎え、また、異邦人すらもイエス様を救い主として待ち望むこの時、ご自身が十字架で命を捨てる時が来たことを宣言されました。そして、ご自身を命を生み出す一粒の麦に例えて、イエス様の死を通して、多くの人がいのちを得るとおっしゃいました。そして、神様が定められた真理を教えられます。それが、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」というみことばです。

イエス様が、自分のいのちを守ろうとして、十字架から逃れるなら、それは、父なる神様の御心に背く事です。イエス様にとって、それこそが罪であり、まことのいのちを失うことだとおっしゃいました。また、自分のいのちを憎むこと、つまり、命を第一にすることなく、神様の御心に従って命を捨てることは、人間の目には、最悪の選択のように思えますが、それこそイエス様にとって御心に従うことです。そして、その選択は、父なる神様との交わりを保ち続け、永遠のいのちを持ち続けることになるとおっしゃいました。

 そして、イエス様はユダヤ人だけでなく、ギリシヤ人であっても、イエス様に仕えるという人は、イエス様についてくるようにとおっしゃいました。この時、イエス様に仕えたいと願っていた人たちは、イエス様がイスラエルの王になったとき、自分も高い地位を得たいと願っていました。しかし、イエス様は、ご自身はこの後、十字架でいのちを捨てると宣言されました。普通の人間でしたら、主人が死んでしまえば仕えようとしても、主人は地上にいないので、何の報いも受けられないのですが、イエス様に仕えるなら、父なる神様が報いてくださると約束してくださいました。それは、イエス様が父なる神様と、いつもともにおられるからです。イエス様に仕えたいと願う人なら、国籍に関係なく、自分の罪を悔い改め、古い自分がイエス様とともに十字架につけて死んで、イエス様とともによみがえり、神様の子どもとして、神の国にいるべきであると、イエス様は教えてくださいました。

ヨハネの福音書12章25節

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

(新改訳第三版)

 イエス様にとって、自分の命を第一にして十字架から逃げることは、神様の御心に背く事でした。つまり、罪を犯すことでした。罪を犯したなら、永遠のいのちを失います。しかし、たとえこの世で命を捨てることであっても、神様の御心に従うなら、永遠のいのちを持つことを知っておられたイエス様は、十字架の道を歩まれました。イエス様は、罪のない完全な人間として、世の罪を取り除く神の小羊となるために、十字架の死という恐怖にも立ち向かってくださいました。

 私たちは、このイエス様の忠実さによって、罪を贖われました。ですから、私たちもイエス様に倣い、どんな困難な時でも罪を犯すことがないように、みことばに聞き従いましょう。そして、イエス・キリストの恵みにより、信仰によって与えられた永遠のいのちを保ち続けていきましょう。そして、イエス様の十字架の死が、さらに多くの実を結ぶことを祈り求め、イエス様の弟子として、イエス様に仕え続けてまいりましょう。