
| タイトル | 苦しみの先にあるもの |
| 聖書 | ヨハネ11:1~10 |
| 説教者 | 木下淳夫師 |
今日のテーマは「苦しみの先にあるもの」です。
私たちの人生は、山あり谷あり、良い時もあれば、苦しい時もあります。その苦しみの時をどのように乗り越えればいいのかということを、イエス様のみことばを通して学ばせていただきたいと願っています。
ヨハネの福音書11章1~6節
1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
(新改訳第三版)
ベタニヤに住んでいたマルタとマリヤは、兄弟ラザロが重い病気を患って死にそうだということを、イエス様に伝えました。2節で、マリヤについて説明がありますが、マリヤが主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったのは、このラザロがよみがえった出来事の後、過越しの祭りの2日前のことです。マリヤが行ったことは、多くの人々にも伝えられていたので、この福音書の読者はマリヤを知っていたと考えられます。
マルタとマリヤは、イエス様ならラザロの病気をいやしてくださると信じて、使いを送ったのですが、イエス様はすぐにベタニヤのラザロのもとに向かうことをせず、その場所に二日とどまっておられました。もちろん、イエス様がラザロのことを気にかけていないわけではありません。マルタとマリヤが嫌いなわけでもありません。彼らとは以前から交流があり、5節にある通り、イエス様は彼らを愛しておられました。弟子たちからすると、ベタニヤに行くということは、イエス様を石打にしようとしていたユダヤ人たちがいる地方ですから、イエス様は安全を考えてベタニヤに行かないのだと思ったかもしれません。
しかし、イエス様がラザロのもとに行かなかったのは、ラザロがこの病気によって死ぬことを通して、神様の栄光が現わされるため、また、神の子が栄光を受けるようになるためだとおっしゃいました。今日のメッセージのテーマにありますように、大きな苦しみの先に、神様は驚くようなご計画を持っておられることを、イエス様は教えてくださっています。
ヨハネの福音書11章7~10節
7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
(新改訳第三版)
イエス様は、弟子たちに「もう一度ユダヤに行こう」とおっしゃいました。弟子たちは、イエス様のことばに驚きました。なぜなら、ベタニヤのあるユダヤ地方で、ユダヤ人の指導者たちはイエス様を石打にしようとしたことを、弟子たちも見ていたからです。そのような殺意を持った人たちが大勢いるところへ行くのは危険だと弟子たちは考えていました。
しかし、イエス様は、このようにおっしゃいました。
「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
これは、直接的には、太陽が出ている明るい間に歩けばつまずくことはないが、暗い夜に歩くことは危険であるということです。しかし、イエス様はだれもがわかることを通して、霊的な真理を教えてくださっています。昼間と言うのは、まことの光である神様です。そして、その光を見て歩くというのは、神様の御心を行っていることを現わしています。逆に、夜の状態は、神様の御心を行っていないときです。このような時は、神様の守りもなく危険な状態だと教えられています。そして、イエス様は、今、神様の御心を行っているので、たとえ危険に見えるユダヤに行っても、だれもイエス様を石打にすることはできないと弟子たちに教えておられます。
ヨハネの福音書11章4節
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」
(新改訳第三版)
マルタとマリヤにとって兄弟ラザロの病気は、深刻な問題でした。しかも、ラザロが死んでしまうということは、彼女たちにとって大きな悲しみです。しかし、イエス様は、そのような大きな苦しみ、悲しみがあったとしても、その先には神様の栄光があるということを教えてくださっています。イエス様の弟子たちも、イエス様がユダヤ人たちに石打にされそうになっていることを知っていました。それでも、イエス様がその危険なところへ行こうとしている姿を見て驚きました。
ここで、私たちが覚えたいことは、目に見える出来事を自分の視点だけで考えて悲しんだり、恐れたり、絶望したりしてはいけないということです。私たちが神様の御心を求めて、神様のみことばに聞き従って歩んでいるなら、そのみことばは私たちの足の灯、道の光ですから、決してつまずくことはありません。そして、その先にある神様の栄光を確信することができるようになります。
この後、ラザロは墓からよみがえってきます。また、イエス様はご自身が十字架に架けられ命を捨てるという、大きな苦しみを通ってくださいます。そして、その苦しみの先に、復活という大きな神様の栄光を現わしてくださいました。そして、その栄光を神様の子どもとなるすべての人々にも与えてくださいます。
私たちも、大きな苦しみに直面することがあるかもしれません。しかし、そのようなときこそ、世の光であるイエス・キリストに目を向け、みことばに耳を傾けましょう。そうするときに、神様の守りの内にとどまり、神様の栄光を拝することができます。