2024年9月15日「見える者が盲目となる」木下淳夫 師

タイトル見える者が盲目となる
聖書ヨハネ9:35~41
説教者木下淳夫師

 今日のテーマは「見える者が盲目となる」です。

 イエス様は、目に見える出来事を通して、目に見えない霊的な真理を教えてくださいます。今回の聖書個所では、生まれつき盲目であった人が、肉体の目が開かれただけでなく、霊の目も開かれ、イエス様が生ける神の御子キリストであることを悟ることができるようになりました。それとは対照的に、自分はすべて知っていると傲慢になっていたパリサイ人たちが、霊的に盲目にされてイエス様を知ることができなくなり、さばきを受ける者に定められてしまいました。私たちも盲目にならないよう、へりくだってみことばに耳を傾けましょう。

ヨハネの福音書9章35~38節

35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」

37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」

38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

(新改訳第三版)

 パリサイ人たちは、イエス様を罪人であると断定していましたが、イエス様に目を開いていただいた人は、イエス様を神様から遣わされた方であると確信していました。それは、生まれつき見えなかった自分の目が、今、イエス様によって見えるようにしていただいているからです。このような奇跡を行うことができるのは、神様から遣わされたキリストでなければ不可能だと、人々は考えていましたし、彼も同じように考えていました。だからこそ、彼はイエス様を罪人だと言い張るパリサイ人に同意することができず、真実を証し続けました。その結果、彼は追放されることになったのですが、イエス様は彼を見つけ出して御声をかけてくださいました。彼は見えるようになっていましたが、イエス様の顔を見たことがありません。ですから、今、話かけてくれているのがイエス様だということに気付いていなかったのでしょう。そして、イエス様は、目が見えるようになった人に、「あなたは人の子を信じますか。」と、問いかけられました。

 彼は、人の子、つまり約束のキリストが、自分の目を開いてくださったのだと確信していました。ですから、イエス様をキリストと信じて従いたいと願って、「その方はどなたでしょうか?」と、尋ねました。イエス様は彼に、ご自身が彼の目を開いたキリストであることを明らかにされました。すると、彼はすぐに「主よ。私は信じます。」と、信仰告白し、イエス様を拝みました。ユダヤ人は神様以外のものを拝することはありません。ですから、彼はイエス様をキリストと信じただけでなく、まことの神様であると信じたということがわかります。この行為から、彼は肉体の目が見えるようになっただけでなく、霊の目も完全に開かれたことがわかります。

ヨハネの福音書9章39~41節

39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」

41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

(新改訳第三版)

 生まれつき目が見えなかった人が、肉体の目が開かれただけでなく、霊の目も開かれて、イエス様がまことの神様であることを知るようになりました。それとは対照的に、律法を学び自分たちは神様を知っていると思い込んでいたパリサイ人たちは、霊の目が完全に閉ざされ、イエス様が神様であることを知ることができず、暗闇に閉ざされてしまいました。このように、イエス様がこの世に来られたことにより、人間の目には罪の中で死んでいくと思われていた人が救われ、自分を誇っている人が滅びに定められることになりました。

ヨハネの福音書9章39節

「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

(新改訳第三版)

 私たちは人を目で見て判断することはできません。ただ、相手と交わりを持ち、相手に自分のことを知らせてもらうことによって、相手を知ることができます。それは、目に見えない神様を知るときも同じことが言えます。私たちが神様を知ろうとするなら、神様と交わりをもち、神様からご自身を啓示していただかなければ、私たちは神様を知ることはできません。

 イエス様は、この生まれつき盲目であった人に対して、イエス様ご自身から近づき、御声をかけてくださり、ご自身がキリストであることを啓示してくださいました。そして、イエス様は、私たちにも聖書を通してご自身を啓示してくださっています。その啓示を、信仰をもって受け取るなら、私たちはイエス様を見ることができます。

しかし、聖書を離れてしまい、自分勝手に神様を知ったつもりになり、自分のイメージで神様を礼拝しているのなら、それはパリサイ人たちが陥ったあやまちと同じです。そのような礼拝は、真の礼拝ではありません。私たちも日々主を崇めていますが、神様を見上げているつもりで、他の何かに目を向けていないか顧みましょう。そして、いつも聖書のみことばに立ち返りましょう。へりくだってみことばを求めるなら、主イエス様は、私たちの前に立ってくださり、ご自身を明らかにし、私たちを見える者に変えてくださいます。