2024年9月1日「目を開いてくださる神様」木下淳夫 師

タイトル目を開いてくださる神様
聖書ヨハネ9:13~23
説教者木下淳夫師

 今日のテーマは「目を開いてくださる神様」です。

 生まれつき盲目であった人がイエス様によって目を開いていただいたことで、人々の間でイエス様は何者であるのかということが話題になりました。私たちも、神様に霊の目を開いていただいて、イエス様をより深く知りたいと願っています。

ヨハネの福音書9章13~17節

13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。

14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。

15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」

16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。

17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」

(新改訳第三版)

 ユダヤ人の指導者たちは、安息日にいやしを行ってはいけないと教えていました。それも、泥を作って目に塗ることは禁止されていた行為です。それでも、人々は生まれつき盲目だった人の目が開かれたので、イエス様は約束のメシアだと考えました。そこで、人々は、目が開かれた人を、パリサイ人たちのところへ連れて行って、メシアでなければできない奇跡が、この人を通して行われたことを報告しました。パリサイ人たちは、人々が言う奇跡が本当のことなのか、本人に尋ねました。

その質問に対して、彼は簡潔に答えています。イエス様がなさったことは、彼の目に泥を塗ってくださったということです。そして、彼がイエス様のみことばを守って、その泥を洗ったことによって、彼はいま見えるようになったと説明しています。彼の証言を聞いてパリサイ人たちの間で意見が分かれました。ある人たちは、安息日にしてはならないということを行ったのだから、イエス様を罪人であると非難しました。また、ある人たちは、メシアにしかできないと言われている奇跡を行ったのだから、イエス様こそメシアだと考えました。

 そして、パリサイ人たちは、目を開いてもらった本人に、イエス様を何者だと考えているのか尋ねました。すると、彼は「あの方は預言者です。」と答えました。人々がイエス様について、いろいろな意見を述べていましたが、彼はイエス様がメシアであると確信することはできませんでした。ただ、イエス様が自分の目を開けてくれたことは、まぎれもない神様のみわざなので、イエス様は神様から遣わされた方だということは確信していました。

ヨハネの福音書9章18~23節

18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、

19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」

20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。

21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」

22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。

23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。

(新改訳第三版)

 イエス様がメシアであることを信じられない人たちは、この人が生まれつき盲目であったことを疑い、彼の両親を呼び出して質問しました。もちろん、両親は彼が生まれつき盲目であったことを知っています。また、彼がイエス様に、目を開けていただいたことに感謝していたことでしょう。しかし、ユダヤ人たちが、イエス様をキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたため、自分から証言することを避けました。

ヨハネの福音書9章15節

「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」

(新改訳第三版)

 今日、私たちがこのみことばから覚えたいことは三つです。

 第一に、イエス様が盲人に目を留めて恵みを施してくださったように、私たちにも恵みを与えてくださったということです。罪に囚われていた私たちに、十字架の血潮による救いの道を開いてくださいました。

 第二に、この盲人がイエス様のみことばに聞き従って泥を洗ったように、私たちもみことばに応答することが大切だということです。救いは、神様の一方的な恵みです。しかし、その恵みを受け取るか、受け取らないかは一人ひとりにゆだねられています。神様の恵みを受け取るために、私たちは神様に対して罪を犯していること、また、その罪の結果として永遠のさばきを受けなければならないことを認めなければなりません。そして、イエス様の十字架が自分のためであり、イエス様を信じて従うなら、さばきを受けることなく、永遠のいのちを受けるという福音を信じてイエス様を主として心にお迎えし、従わなければなりません。それが信仰による応答です。この盲人も、イエス様の恵みを受け、信仰によって応答しました。その結果、彼は見えるようになりました。

 三番目に覚えたいことは、彼が「私はいま見えるのです」と言ったように、私たちもイエス様を見ることができるようにしていただいているということです。

イエス様こそ私たちの救い主キリストであると信じて従うなら、霊の目を開いてくださる神様は、さらにご自身をはっきりと教えてくださいます。ですから、私たちも、神様から与えられる恵みのみことばを信仰によって応答し、霊の目をさらに開いていただいて、人知をはるかに越えたキリストの愛を知る者にしていただきましょう。