2024年4月28日「栄光は誰のものなのか」木下淳夫 師

タイトル栄光は誰のものなのか
聖書ヨハネ7:14~24
説教者木下淳夫師

 今日のテーマは、「栄光は誰のものなのか」ということです。

 私たちは、良い結果を出すことが出来たり、成果を残すことができたとき、人から褒められることがあります。それは本人にとって、とてもうれしいことですし、他の人にも良い影響があります。しかし、時としてその成功をねたむ人がいることも事実です。キリストのからだである教会でこのような不一致が起こっては大変です。そこで、教会で奉仕をさせていただく時、私たちは神様がほめたたえられるようにしなければならないことを、今日のみことばから再確認させていただきましょう。

ヨハネの福音書7章14~18節

14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。

15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」

16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。

17 だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。 18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。

(新改訳第三版)

 イエス様は仮庵の祭りに来られたのですが、一週間続く祭りの中頃になってから宮に上って教え始められました。そこでイエス様が語られる教えをユダヤ人の指導者たちも聞いていました。彼らはイエス様を殺そうと企んではいたのですが、大勢の人がいるところで、正当な理由もなく捕らえることができなかったのでしょう。そして、彼らはイエス様が正規に学んだことがないのに、どうしてこれほどの学問を身に着けているのかと驚きました。

 確かにイエス様は、ラビたちが学ぶような方法で律法を学んではいませんでした。大工だったヨセフの子どもとして生まれたので、ご自身も大工をしていました。ですから、人間的に見れば律法の専門家でも祭司でもない人ですから、神様について、また、律法については素人同然と思われても仕方がありません。ところが、イエス様の教えは、当時のどのラビよりも優れた教えであり、権威がありました。

 イエス様は、ご自身が語られる教えは、自分自身の教えではなく、父なる神様の教えであるとおっしゃいました。ですから、神様の御心を行おうと願っている人、神様の御心を求めてみことばを学んでいる人には、イエス様が語られる教えが、神様から出ていることがわかるのだと、イエス様はおっしゃいました。

 当時多くのラビたちは、自分が人から褒められたい、栄光を受けたいと願っていたので、自分の言葉を語ろうとしました。人々が知らない新しい教え、より魅力的な教えを説くことによって人々の注目を集めようとしました。しかし、そのような教えは神様の御心から離れてしまい、自己中心な不正が入り込んでしまいます。イエス様が語られる教えには、そのような不正はまったくありません。ただ、神様の真実だけが語られているのだと、イエス様はおっしゃいました。

ヨハネの福音書7章19~24節

19 モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」

20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」

21 イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。

22 モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。──ただし、それはモーセから始まったのではなく、父祖たちからです──それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。

23 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。

24 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」

(新改訳第三版)

 イエス様は、ユダヤ人の指導者たちに対して、彼らが律法を守ると言いながら、実際には行動が伴っていないことを指摘されました。そして、彼らがイエス様を殺そうとしていることを、きびしく責められました。

 ユダヤ人の指導者たちに賛同していた群衆のグループは、イエス様に対して「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」と言っています。エルサレムにいた群衆は、指導者たちがイエス様を殺そうとしていたことを知っていましたから、この群衆は他の地方から来ていた群衆だと考えられます。そのような人たちにイエス様は、ユダヤ人の指導者たちは、安息日であっても八日目の割礼は行うのに、安息日に人を癒すみわざを行ったイエス様を迫害し、殺そうと企んでいることを指摘し、彼らが律法を守っていない、神様の御心を求めず、自分の栄光だけを求めていることを責められました。

ヨハネの福音書7章17節

だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

(新改訳第三版)

 私たちは、教会でさまざまな奉仕をさせていただいています。しかし、その奉仕を通して、誰が栄光を受けるのかということを考えなければなりません。奉仕にあたる人は、イエス様が父なる神様の御心だけを語られたように、ただ神様の栄光を求めて奉仕をすべきです。特に人の前に立つ奉仕は、自分も栄光を受けたいという誘惑が強く働きますので注意が必要です。また、奉仕を通して良い結果を残すことができたときも、私たちを助けてくださっているイエス様から目を離さず、イエス様に感謝することを忘れないようにしましょう。

 そして、他の人が奉仕にあたるのを見る人、また支える人も、自分が何を求めているのかということが大切だということを覚えましょう。イエス様は、「だれでも神のみこころを行おうと願うなら」と、おっしゃいましたが、イエス様の教えを聞く人でも、神様の御心を行おうと願う人は、イエス様の教えを正しく受け取り、栄光を神様にお返しすることができました。しかし、神様の御心を行おうと願わず、人間的な思いでみことばを聞いたり、他の人の奉仕を見ると、神様の栄光を拝することができません。それどころか、そこには不正やねたみが入り込み、平安を失ったり、教会に不一致を生じたりします。

 今日、栄光は主のものであることを再確認しましょう。そして、人の前に立って奉仕にあたる人も、かげにあって奉仕にあたる人も、心を一つにして神様の御心を行うことを願いましょう。そうするときに、神様はご自身の栄光を現わしてくださいます。