タイトル | 光の子どもとして生きる |
聖書 | 1テサロニケ5:1〜11 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日は、「光の子どもとして生きる」というテーマです。
現代社会は非常にたくさんの情報があふれています。しかし、すべてが真実であるわけではありません。たくさんの偽りの情報も存在します。それらの中には、人を騙して他人の財産を奪おうとするもの、また、霊的に人を滅ぼしてしまうものがあります。そのような世の中でも、私たちは神様の子ども、光の子どもとして生きる必要あります。今日、ご一緒にみことばを通して、光の子どもとして生きる方法を学ばせていただきましょう。
テサロニケ人への手紙第一5章1〜5節
1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦の産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
(新改訳第三版)
パウロは、イエス様が再臨される時、キリストにある死者はよみがえり、生き残っている信徒も一緒に雲の中に引き上げられ、空中で主とお会いし、いつまでも主と共にいるようになるということを教えました。
そのような話を聞くと、多くの人は、イエス様の再臨がいつなのかとても気になります。しかし、パウロはイエス様が来られる時は、夜中の盗人のように来るので、誰にもわからないと教えています。イエス様の再臨を信じない人たちが、「平和だ。安全だ。」と言っているようなときに、突如として主は再臨され、信徒は天に引き上げられ、地にはさばきが始まります。
ただ、主にある兄弟姉妹は、イエス様の恵みによって光である主のみもとに移され、光の子ども、昼の子どもにしていただきました。もはや暗やみの中にいませんから、イエス様が突然この世に来られた時、滅びが襲うようなことはありません。ですから、主の日を恐れる必要はありません。
テサロニケ人への手紙第一5章6〜8節
6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
(新改訳第三版)
イエス様の再臨は、イエス様に逆らう者たちにとっては突然襲いかかるさばきの日です。しかし、イエス様を信じた信徒にとっては、栄光のからだに変えられ、いつまでも主と共にいることができる恵みのときです。そのようなすばらしいときを期待して、いつ主イエス様が来られても喜んでお迎えできるように備えるように教えられています。信仰の目を覚まして、罪深い生活から離れて神様の子どもらしく慎み深く生活することが勧められています。
そのために、信仰と愛を胸当として着けます。私たちの心は、不安や悲しみによって弱ってしまいます。しかし、イエス様がともにいてくださるという信仰を持ち続けるなら、どんな不安も消え去ります。いつも神様の愛を受け取って、心が愛で満たされているなら、どのような困難な状況になっても、平安を持ち続けることができます。
また、救いの望みをかぶととしてかぶります。天国の希望を持ち続けるためには、救いの約束を理解して偽りに惑わされないことが大切です。イエス様を信じて救いに与った人は、決して見捨てられることはありません。しかし、この世の人々は、救いの約束を疑い、信徒たちにもいろいろな情報を与えることによって、天国の希望を失わせようとします。そのような偽りの情報に惑わされないようにするためには、感情によって信仰を守ろうとするのではなく、正しく神様の約束を理解することが大切になります。ですから、しっかりと考える力を養い、みことばを理解して、罪を離れ慎しみ深い生活をするために、救いの望みをかぶととしてかぶって、偽りに惑わされないようにしなければなりません。
テサロニケ人への手紙第一5章9〜11節
9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
(新改訳第三版)
汚れたことが普通になっているこの世で、慎み深く生きることは、簡単なことではありません。しかし、そのように生きることが大切なのは、神様が私たちを、御怒りを受けるようにではなく、主キリスト・イエスにあって救いを得るように定めてくださったからです。父なる神様が御子イエス様をこの世にお与えくださったのは、私たちがだれも滅びることなく永遠のいのちを持つためです。そのために、イエス様はご自身のいのちを十字架で捨ててくださいました。私たちが犯してきたすべての罪をイエス様が背負ってくださり、十字架で死んでくださったことによって、私たちの罪も処分されました。ですから、私たちはこの世で生きていても、肉体が滅びて眠った状態になっていても、主の日が来ると、いつも主とともにいることができます。
私たちが生活しているこの世では、たくさんの情報があふれ正しいことがわかりづらくなっています。そのような世にあっても天国の希望を抱いて、平安のうちに生きるために、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深く生活しましょう。そして、主にある兄弟姉妹と、互いに励まし合い、互いに徳を高め合って、一緒にイエス様の再臨を待ち望みたいと願います。