2022年5月8日「不従順に対して罰がくだる」木下淳夫 師

タイトル不従順に対して罰がくだる
聖書2コリント10:1~6
説教者木下淳夫師

 今日は、「不従順に対して罰がくだる」というテーマです。

 ときどき、親や先生の言うことをまったく聞かない子どもがいます。しかし、そのような子どもたちでも、一度きびしく叱られると、その叱った人に対しては態度が変わるようです。私たちも、神様に対していつも言うことを聞かない、みことばに従わないようなことはありませんか?コリントに人たちの中には、そのような人たちがいたようですが、パウロは彼らに対してどのように教えているのか、ご一緒に学ばせていただき、私たち自身も神様に対して不従順なところがあったなら、悔い改めたいと願っています。

コリント人への手紙第二 10章1〜2節

1 さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。

2 しかし、私は、あなたがたのところに行くときには、私たちを肉に従って歩んでいるかのように考える人々に対して勇敢にふるまおうと思っているその確信によって、強気にふるまうことがなくて済むように願っています。

(新改訳第三版)

 パウロに対して、ある人たちは、手紙の内容はとても強気なことを書くけれども、面と向かっているときはおとなしいと考えていました。そのような人たちは、パウロが、キリストに従っていると言いながら、実際のところ、人の顔色を伺っている弱い人間であり、自分の肉の性質、自分の感情に従って歩んでいるのであり、キリストの弟子、キリストの使徒と呼ぶことはできないと考えていました。

 パウロは、イエス様から権威を与えられた使徒として宣教の働きを行っていました。ですから、パウロの宣教を否定するということは、パウロを遣わしたキリスト・イエス様を否定することになります。パウロは、自分自身に敵対する相手に対してきびしい態度を取ると言うのではありません。キリストの権威によって遣わされ、キリストの権威に従って歩んでいることを否定する人に対して、キリスト自身を否定する者としてきびしく対応すると宣言しています。

 それでも、パウロはコリントの兄弟姉妹を愛していました。ですから、彼らをキリストに敵対する者としてさばきたくなかったので、コリントに行ったときには、彼らにきびしい面を見せず、きびしいことは離れたところから手紙で書き送るようにしていました。それに甘えていた人たちに、パウロはこの手紙で警告をしています。

コリント人への手紙第二 10章3〜6節

3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。

4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、

6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。

(新改訳第三版)

 パウロは「肉にあって歩んでいる」と、自分が肉体を持って生きているけれど、宣教の働きは、自分の考えや計画に従って行っているのではないと明言しています。そして、パウロは面と向かったときにはおとなしいと考えている人たちに、パウロが宣教の働きをする中で用いている武器が、肉体を滅ぼすような剣や、戒めるための鞭などではなく、神様の御前で要塞をも打ち破るほど力ある武器であると言っています。この武器を使うことになるのは、パウロが使徒であることを認めない人たちに対して、神様のさばきがくだることを意味しています。パウロが、強気に振る舞うことになるなら、それほど、おそろしいさばきがくだることになります。

 コリントには、さまざまな思弁と、高ぶりによって、神様の教えに従わない人たちがいました。また、そのような人たちは、パウロが手紙で戒めても、悔い改めるどころか、恐れることもありませんでした。しかし、パウロは、そのような人たちの高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに従わせる力を持っていると教えています。パウロは、人々がキリストに従っていると言いながら、キリストの権威に従わないこと、使徒の権威を認めないこと、さらに言うなら、みことばに従わないことに対して、あらゆる不従順を罰する用意ができていると宣言して、すべての人がすぐに悔い改めることを願っています。

 私たちは、聖書のみことばをどのように考えているでしょうか?聖書には愛に満ちたことば、慰めに満ちたことば、希望のことばがたくさんあります。逆に、自分では納得できない教えや、きびしい戒めのことばがあることも事実です。そのようなとき、自分は理解できないから、受け入れられないからといって、みことばを拒否することはないでしょうか。もしも、与えられたみことばをそのまま受け入れないのなら、それはキリストに従って歩むのではなく、自分の考え、自分の欲、自分の肉に従って歩むことになります。

 そのような歩みをすることに対して、パウロがきびしいことばを並べていることを覚えましょう。神様ご自身が、そのような不従順を罰する用意をしておられることを覚えましょう。「さばきはない」とか、「滅びはない」と考えて、みことばを受け入れず、キリスト・イエス様を受け入れず、自分勝手な生き方をしているなら、予想もしないときにさばきがくだされます。ですから、いつでも与えられたみことばに従順に従い、兄弟姉妹と、また、イエス様と、柔和と寛容に満ちた交わりをさせていただきたいと願います。