タイトル | 神様が求めておられる礼拝者 |
聖書 | ヨハネ4:15〜26 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日は、「神様が求めておられる礼拝者」というテーマです。
私たちは、毎週礼拝を捧げているのですが、この礼拝が本当に神様に喜ばれる礼拝になっているのか、また、私たち自身が、神様が求めておられる礼拝者になっているのか、学ばせていただきたいと願っています。
ヨハネの福音書4章15〜18節
15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
(新改訳第三版)
サマリヤ人の女性は、イエス様がおっしゃった生ける水を求めました。しかし、彼女が想像したのは、喉の渇きを潤す水でした。彼女にとって、霊的な恵みが必要なことは当然でしたが、それ以前に生活が大変であるということが彼女の信仰を妨げていました。イエス様は彼女の苦しみもご存知でした。ですから、イエス様は、彼女の霊の目が開かれるように、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と、彼女が抱えている最も大きな問題にアプローチをされました。彼女は「私には夫はありません。」と答えたのですが、イエス様は彼女が抱えているつらさを汲み取ってくださり、彼女が適切な答えをしたことを評価し、彼女の重荷を下ろすように導くために、ご自身が全てをご存知であることを明らかにされました。
ヨハネの福音書4章19〜26節
19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
21 イエスは彼女に言われた。「私の言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
22 救いはユダヤ人から出るものですから、あなたがたは知らないで礼拝しています。
23 しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
(新改訳第三版)
イエス様が自分のことを全てご存知であるということを知ったサマリヤ人の女性は、イエス様が神様から遣わされた預言者だと考えました。それによって、イエス様がおっしゃった生ける水が、霊的な恵みであることを悟りました。
そして、彼女の父祖たちが、サマリヤにあるゲリジム山で礼拝してきたけれども、ユダヤ人はゲリジム山での礼拝を認めておらず、エルサレムで礼拝すべきだと言っているけれども、真実はどうなのかイエス様に尋ねました。このことから、彼女がつらい生活の中で、まことの神様の救いを切実に求めていたことがわかります。しかし、残念なことに、彼女を正しく導いてくれる人は、今までいませんでした。イエス様は、古くからの言い伝えを信じてきた彼女に、「私の言うことを信じなさい。」と、おっしゃいました。イエス様は、彼女を言い伝えや、現在の束縛から解放するために、イエス様ご自身に信頼するように命じられました。そして、神様が求めておられるのは、霊とまことによって礼拝する真の礼拝者だと教えられました。
イエス様は、今こそ礼拝する場所も、ユダヤ人もサマリヤ人も関係なく、真の礼拝者たちが霊とまことによって父なる神様を礼拝するときであると、彼女に教えられました。彼女は、イエス様を預言者と認めてはいたのですが、イエス様が話されたことをすぐに信じることはできませんでした。彼女は昔からキリストと呼ばれるメシヤが来たとき、すべてのことを知らせてくれると教えられてきました。ですから、彼女はメシヤが来たときに、真実がわかるので、それまでは、今、新しい礼拝を捧げる時代が到来していることを信じられませんでした。そのような彼女に、イエス様はご自身がメシヤであると宣言されました。
ヨハネの福音書4章24節
24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(新改訳第三版)
サマリヤ人の女性は、困難な生活の中で霊的な恵みよりも、目の前の必要を求めていました。また、古い言い伝えに縛られていたために、目の前にいるイエス様こそ、待ち望んでいたメシヤであることに気づきませんでした。私たちも、日々の生活が困難なとき、すぐに霊的な恵みを求めることは困難です。
私も震災に遭った時、必要な食べ物や飲み物、住む場所が備えられていたので、すぐに礼拝に行くことができましたが、多くの人はその日の生活を守ることが最優先でした。そのために、霊的な恵みが必要なことはわかっていても、なかなか礼拝しようという気持ちにはなりません。
しかし、イエス様の救いに与った私たちは、困難の中でも、目の前にイエス様がいてくださることを忘れてはいけません。そして、私たちに与えられた聖霊様、そして、完全なるまことであるお方、つまり、真理であるイエス・キリストを通して、神様の御前にへりくだって礼拝することが求められていることを覚えましょう。真の礼拝者は霊とまことが求められていますが、どちらも生まれながらの人間は持っていません。ただ、イエス様を通して与えられるものです。ですから、イエス様とともに歩むことが求められていると言えます。
また、礼拝は場所が大切なのではありません。どこででも、誠実に神様を礼拝することを父なる神様は求めておられます。私たちの礼拝は、形式的なものになっていないでしょうか。順序に従って儀式を行うことを、神様は求めておられません。イエス様を抜きにして、義務的に賛美歌を歌ったり、みことばを他人事のように聞いてしまっていることはないでしょうか。今日、もう一度イエス様が永遠の滅びから私たちを救ってくださったことを覚えて心からの礼拝をおささげしましょう。