2023年8月20日「イエス様が崇められるように」木下淳夫 師

タイトルイエス様が崇められるように
聖書ヨハネ3:22〜30
説教者木下淳夫師

 今日のテーマは、「イエス様が崇められるように」です。

 バプテスマのヨハネは、人々に罪の悔い改めを説き、キリストであるイエス様をお迎えする準備をするために、神様から遣わされました。ですから、ヨハネはイエス様が盛んになり、自分が衰えることを喜びました。今日、私たちも、みことばを通して、いろいろな奉仕が、イエス様が崇められるために与えられていることを覚えたいと願っています。

ヨハネの福音書3章22〜24節

22 その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

23 一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て。バプテスマを受けていた。

24 ―ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである。―

(新改訳第三版)

 過越の祭の後、イエス様は弟子たちと一緒にユダヤの地で宣教を始められました。イエス様が群衆に語られたことは、「悔い改めて福音を信じなさい」ということです。バプテスマのヨハネが、群衆に罪を悔い改めるように語っていたのと同じように、イエス様も群衆に悔い改めを命じました。ヨハネとイエス様が同じメッセージを語っていたということは、ヨハネが神様から遣わされた預言者であるということを、イエス様も認めておられたことを示しています。そして、群衆がヨハネのもとで罪を悔い改めたように、イエス様のもとに来た人たちも、自分の罪を悔い改めて、バプテスマを受けていました。このバプテスマは、信じた人たちが罪を悔い改め福音を信じるという信仰を表明する行いでした。バプテスマのヨハネも、この時はまだ投獄されていませんでしたから、二人はヨルダン川を挟んで、同じ福音を語り、同じバプテスマを授けていたことになります。

ヨハネの福音書3章25〜30節

25 それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。

26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」

27 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。

28 あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。

29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

(新改訳第三版)

 あるユダヤ人がヨハネの弟子のところへやって来てきよめについて議論しました。おそらく、ユダヤ人はさまざまな場面できよめの儀式として、水のバプテスマを行なっていました。ですから、ここで議論を起こしたユダヤ人は、自分たちは普段からきよめの儀式として水のバプテスマを行なっているので、今更、罪をきよめるためにバプテスマを受ける必要などないと考えていたのでしょう。もちろん、ヨハネの弟子たちは、ヨハネが授けているバプテスマは、罪を悔い改めキリストを待ち望む信仰告白としてのバプテスマであり、彼らが行なっている儀式的な水によるきよめではないという議論がなされたと考えられます。

 さらに、ヨハネの弟子たちはヨハネのところへ行って、イエス様がヨルダン川の向こう岸で、ヨハネと同じ福音を語り、同じバプテスマを授けていて、人々がイエス様の方へ行っていることについて語っていますが、おそらく彼らは、自分の先生よりも後から現れたイエス様の方に人々が集まっていることに嫉妬したのでしょう。ヨハネのバプテスマは不要だと考えるユダヤ人、さらに多くの人がヨハネのもとを離れてイエス様の方に行くことを見て、ヨハネの弟子たちは自分の先生が行なっていることが空しいものになってしまうのではないかと不安になったと考えられます。

 ヨハネは弟子たちに自分がキリストではなく、キリストの前に遣わされた者であると言い続けて来たことを思い出させました。そして、ヨハネは、花婿と花嫁、そして花婿の友人の関係を通して、イエス様と神の民、そして自分との関係を説明しました。花婿であるイエス様は、花嫁である神の民を迎えるために、この世に来られました。ヨハネは花婿ではありません。ヨハネは婚礼の時に花婿につき添う友人のように、花婿であるイエス様の側に立って手伝いをし、イエス様の声を聞いて大いに喜びました。ヨハネは、人々がイエス様のもとに集まることで、自分が神様から与えられた役目を果たすことができることを喜びました。

ヨハネの福音書3章30節

30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

(新改訳第三版)

 この世では、すばらしいことをした人は賞賛されます。自分の努力や成功を評価してもらえることは、とても大切なことです。しかし、神様の子どもにしていただいた私たちは、そのような才能や、力を与えてくださったのは神様であるということを忘れてはいけません。神様は、私たちがあらゆる行いを通して、神様の栄光を現して欲しいと願っておられます。これは、教会でのさまざまな奉仕についても同じです。ですから、教会での奉仕にあたるとき、私たちは心を一つにして、イエス様だけが崇められることを求めましょう。

 この世的な考え方では、神様の恵みを受けるには、たくさん奉仕するべきだと思うかもしれません。しかし、神様の恵みはへりくだる者に与えるのであり、どれだけ奉仕したのかではありません。バプテスマのヨハネが、自分が衰えても、イエス様が盛んになることを喜んだように、私たちも教会の奉仕、家庭や学校、社会での働きにおいて、イエス様が崇められることを願って、心を一つにして奉仕させていただきたいと願います。