
タイトル | ともに葬られ、ともに生きる |
聖書 | ローマ6:1〜11 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日のテーマは「ともに葬られ、ともに生きる」です。
信徒の中には、「イエス様を信じています」と言いながら、イエス様を信じる前とあまり変わることなく、この世の罪深い生活を続けてしまう人、また、罪の誘惑に流されやすい人もいるかと思います。
そのような場合、イエス様がつけられた十字架の意味を正しく理解していないのかもしれません。今日は、この最も大切な福音を、イースターの前に再確認して、永遠のいのちをいただいた喜びをもって新しい歩みをしたいと願っています。
ローマ人への手紙6章1〜7節
1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
(新改訳第三版)
この世界は、最初の人アダムによって全ての人が罪に定められました。そして、この世には罪が増し加わってしまいました。しかし、神様はイエス様の義の行いによって全ての人を義と認め、いのちを与えてくださいました。私たちは、この恵みによって罪が赦されます。永遠の滅びというさばきを受けなければならないはずの者が、イエス様を信じることによって救われるのですから、これは驚くばかりの恵みです。ところが、恵みによって罪が赦されるとわかったなら、罪を犯してもいいのではないか、また、恵みが増し加わるために罪の中に留まろうと考えるような人がいました。
そのような人たちに対してパウロは、信徒がキリスト・イエスにつくバプテスマを受けたことを思い起こさせています。バプテスマは一つになることを意味していますから、キリストにつくバプテスマは、キリストと一つになること、キリストの死にあずかるバプテスマは、キリストの死と一つになることを意味しています。ですから、信徒は、聖霊様の働きによってイエス様が主キリストであると信じ、イエス様と一つにしていただいています。そして、イエス様の死と一つにされていています。
私たちは、イエス様が私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったという事実を信じることで、私たちの古い自分もイエス様と一緒に十字架につけられます。そして、イエス様を信じた私たちはイエス様と一緒に墓に葬られ、イエス様と一緒によみがえると、パウロは教えています。
イエス様を信じた後も罪を犯してかまわないとか、恵みを増し加えていただくために、罪を増し加えようと考える人たちは、本当の意味でイエス様を信じてはいません。なぜなら、死んでしまった者は罪から解放されているので、罪を犯そうとは考えなくなるからです。
パウロはイエス様と一つにしていただいたことによって、罪のからだが滅びて、もはや罪の奴隷でなくなったことを経験的に知っていました。ですから、パウロは、すべての信徒が罪から自由にされ、もはや罪を犯すことがないように、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られていることを覚え、イエス様の復活にあずかり、いのちにあって新しい歩みをするように教えています。
私たちも、イエス様が十字架によって、私たちの古い性質を一緒に釘付けにして葬ってくださったことを覚えましょう。もしも、古い性質が顔を出しそうになったら、自分の罪のためにイエス様が十字架につけられ、自分も一緒に十字架につけられたことを思い出してください。
ローマ人への手紙6章8〜11節
8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
(新改訳第三版)
イエス様がつけられた十字架の意味を知ることはとても重要です。そして、イエス様がその死からよみがえられたことは、さらに重要です。イエス様は死に勝利し、よみがえられました。それは、イエス様が死よりも力あるお方であり、もはや死がイエス様を支配しないことを意味しているからです。イエス様が死に支配されないならば、イエス様に従う信徒も、死に縛られることはありません。キリスト・イエス様は死なれました。ただ一度罪によって死なれました。しかし、キリスト・イエス様は生きておられます。今、神様によって生きておられます。ですから、イエス様を信じる信徒も、「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」と命じられています。
今日、私たちもイエス様が苦しまれ、いのちを捨ててくださった十字架が、私たちの罪のためであることをもう一度思い起こしましょう。そして、イエス様を信じたなら、古い自分もイエス様と一緒に十字架につけられ死んでいることを覚えましょう。古い性質が顔を出しそうになったら、十字架につけられているイエス様と、一緒に十字架につけられている古い自分を思い出してください。私たちは、イエス様の十字架の死と一つになっているのなら、復活のイエス様と一緒にいのちの歩みをすることができます。