2023年1月15日「主にならう者になる」木下淳夫 師

タイトル主にならう者になる
聖書1テサロニケ1:6〜10
説教者木下淳夫師

 今日のテーマは「主にならう者になる」です。

 田舎で伝道していると、地域に根付いた宗教があるから伝道が難しいと感じることが多いと思います。それに比べて、新約聖書の時代は、福音を伝えるのが容易だったのではないかと思うかもしれません。しかし、聖書を読んでみると、当時の伝道も決して簡単ではなかったことがわかります。

 今日は、困難が多い中でも使徒たちと主イエス様にならったテサロニケの信徒の信仰を学びたいと願っています。

テサロニケ人への手紙第一1章6〜7節

6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。

(新改訳第三版)

 テサロニケの信徒は、パウロが語った福音を信じました。ただ、彼らは簡単にイエス様を救い主と信じて、主に従うことができたわけではありません。パウロが、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れたと言っていることからわかる通り、今までその地域で信仰されていた神々を離れて主を信仰することは、困難が伴いました。パウロがユダヤ人に福音を語ったとき、信じた人も多かったのですが、命の危険に遭遇するほど、ユダヤ人に憎まれたことを思い出していただくと、今まで聞いたことがない福音を受け入れ、その地域の神々を捨てて新しい信仰生活に入ることが困難だったことがわかります。それでも、テサロニケの信徒は、聖霊様の力強い働きを受けて、イエス様こそ主であると告白し、喜びをもってみことばを受け入れました。そして、彼らは使徒たちに倣い、また、使徒たちから教えられた主に倣うものになりました。

 イエス様を信じた人は、みなイエス様の弟子として、イエス様に従うことが求められます。イエス様に従うこと、イエス様がこの地上でなさったように生きるためには、イエス様がなさったことを知らなければなりません。そのためには、使徒たちから学び、使徒たちに倣う必要がありました。テサロニケの信徒は、そのようにパウロたち、また、使徒を通して学んだ主イエス様に倣う者になりました。そして、彼らがイエス様に倣って生きる姿は、マケドニヤとアカヤのすべての信者の模範になりました。

テサロニケ人への手紙第一1章8〜10節

8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。

9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、

10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

(新改訳第三版)

 パウロたちは、どこへ行っても主イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。イエス様がまことの神様であり、すべての人の罪を背負って十字架で死んでくださったこと、墓に葬られ、三日目によみがえられたこと、そのイエス様を救い主と信じるなら、だれでも罪が赦され、永遠の滅びから救われて、永遠の命をいただき、神様の子どもにしたいただく特権をいただき、神の国に入ることができるということを、パウロはどこででも宣べ伝えました。

 また、パウロは福音を信じて救われた人たちには、神様の子どもとしての生き方を教えていました。そして、同じように救いに与った兄弟姉妹がいること、その主にある兄弟姉妹が、どのように信仰を守っているのかを証しすることで、新しく生まれた教会を励ましていました。テサロニケの信徒は、聖霊による喜びから、信仰による愛の働きを積極的に行っていたので、地域で評判になり、その行いと信仰の証は彼らのいる地域にとどまらず、マケドニヤとアカヤに響き渡っていました。彼らは、どのように福音を受け入れたのか、また、どのように地域で崇拝されていた偶像から立ち返って、生けるまことの神様に仕えるようになったのか、また、イエス様の再臨をどのように待ち望むようになったのかということを、人々に話していました。

テサロニケ人への手紙第一1章6節

あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

(新改訳第三版)

 日本では、家の宗教や地域の宗教に縛られて、イエス様を信じて教会につながることは難しいと考える人も多いと思います。しかし、そのような中でも、聖霊様が働いてくださることによって、自分が神様に愛されているという喜びをいただくことができます。死の束縛からも解放され平安に満たされるとき、苦難があったとしても、主イエス様に倣う者になることができます。

 具体的にどのような行いをするのかというと、テサロニケの信徒が行っていたような行いと証です。証は、自分がどのように福音を聞いたのかということ、また、福音を受け入れて救われたことで、生活がどのようにかわったのかということ、また、困難の中でもイエス様に希望を持っているということです。救われた過去、救われている現在の生活、そして、将来における救いの完成の希望を証することです。私たちの生活には苦難も多いと思いますが、イエス様の恵みを思い起こすとき、ともに歩んでくださっているイエス様を知ることができるようになります。私たちも、テサロニケの兄弟姉妹のように、主イエス様に倣う歩みをしてまいりましょう。