2023年1月22日「愛される者」木下淳夫 師

タイトル愛される者
聖書1テサロニケ2:1〜8
説教者木下淳夫師

 今日は、「愛される者」というテーマです。

 みなさんは自分が愛されているということを認めることができますか?自分など愛される価値もないと思ってしまうことはありませんか?今日は、パウロが、テサロニケの人たちを、「私たちの愛する者となった」と言っていることから、私たちも主と主にある兄弟姉妹から愛される者にしていただいたことを再確認させていただきたいと願っています。

テサロニケ人への手紙第一2章1〜5節

1 兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。

2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。

3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。

4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

5 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。

(新改訳第三版)

 パウロは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、宣教旅行を行いました。しかし、すでに様々な信仰が根付いている地で、イエス・キリストの福音を伝えることは、簡単なことではありませんでした。キリストを待ち望んでいた同胞のユダヤ人ですら、イエス様がキリストであるということを信じられず、パウロを迫害することもありました。それでも、パウロは自分たちがテサロニケに行ったことは無駄ではなかったと言っています。それは、激しい苦闘がありましたが、その中でもテサロニケに行ったとき、神様が助けてくださったので、大胆に福音を語ることができ、テサロニケの人々がイエス様を救い主と信じて救いに与り、キリストの弟子として立派に成長したからです。

 パウロは、テサロニケで、どのように伝道したのかを兄弟姉妹に思い起こさせようとしています。実は、テサロニケで教会ができてすぐに、パウロはユダヤ人の迫害によって、その場を離れなければなりませんでした。ですから、テサロニケの教会に、パウロたちが自分たちの利益のために偽りを広めたと言うユダヤ人たちが来たのでしょう。ですから、パウロはテサロニケの兄弟姉妹の信仰が揺らぐことがないように、パウロたちが伝えた福音に偽りがないことを伝えようとしています。これは、3節の「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。」という言葉にはっきりと表れています。

 パウロたちが福音を語る時、人を喜ばせようとして語ることはありませんでした。人が喜びそうなことを語って、たくさんの人を自分たちのもとに集めるほうが、自分の地位を確立することになりますし、経済的にも儲かります。しかし、パウロはあくまで神様のみこころに従って福音を語りました。

 福音は私たちに救いをもたらしてくれるので、とても嬉しい知らせです。しかし、救いを受けるためには、自分が罪人であることを認める必要があります。福音を語るとき、どうしても自分の罪を認めること、その罪を悔い改める必要があることを語らないわけにはいきません。しかし、罪を指摘されることは、多く人にとって嬉しくないことです。それでも、パウロは大胆に、また、愛を持って罪を指摘し、その罪をきよめてくださるイエス様の恵みを語りました。パウロに敵対していた人たちは、自分勝手にパウロを偽りものとしたのですが、パウロは心をお調べになる神様を喜ばせようとして、福音を語ったことを断言し、神様ご自身がそのことの証人であると言っています。

テサロニケ人への手紙第一2章6〜8節

6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。

7 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。

8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。

(新改訳第三版)

 パウロは、自分が語ったことだけでなく、どのようにテサロニケの人たちに接したのかということを思い出させようとしています。パウロは行った先々の会堂で語ることが許されていることからわかるように、律法についても詳しい先生でしたから、人々から名誉を受け、報酬を受ける立場ではありました。それどころか、パウロはまことの神様であるイエス様から権威を授けていただいた使徒ですから、当然使徒としての権威を主張して、良い待遇を受けることもできました。しかし、パウロはそのような態度をとることなく、母親が子どもを養うように、テサロニケの人々に優しく接しました。その献身的な思いは、自分のいのちまでも喜んで与えたいと思うほどでした。そこまでパウロがテサロニケの人たちを大切に思うのは、彼らが愛する者となったからです。彼らが神様の子どもとして新しく生まれ、神の家族の一員になったからです。

テサロニケ人への手紙第一2章8節

なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。

(新改訳第三版)

 私たちも、自分の罪を認めて悔い改め、イエス様の恵みによって神様の子どもにしていただきました。私たちも主イエス・キリストにあって、愛される者にしていただいています。神様に愛され、主にある兄弟姉妹に愛される者にしていただいています。主に愛され、兄弟姉妹が互いに愛し合う交わりは、だれかが名誉を受けるものではありません。ただ、みんなが心を一つにして神様が喜ばれることをするだけです。この交わりを通して、人々は神様の御愛を知り、希望の光を見出します。ですから、一人ひとりが愛される者にしていただいたことを覚え、まだ神様のご愛を知らない人に、私たちが受けた愛を伝えてまいりましょう。