2024年1月28日「ありあまる恵み」木下淳夫 師

タイトルありあまる恵み
聖書ヨハネ6:1~14
説教者木下淳夫師

 今日のテーマは「ありあまる恵み」です。

 神様の恵みは、朝ごとに新しく、私たちを満たしてくださいます。しかし、私たちはその恵みに気づかず、足りないことの方に目が向きがちです。その結果、感謝よりも不平の方が多くなってしまいます。今日は、私たちにありあまるほど注がれている神様の恵みを再確認して、すべてのことに感謝した生活をしたいと願っています。

ヨハネの福音書6章1~9節

1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。

2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。

3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。

4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。

5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」

6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。

9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

(新改訳第三版)

 この当時、イエス様が移動されると、大勢の人々がイエス様を追いかけて来ました。ある人たちは、イエス様こそ、ローマの支配から救ってくださるイスラエルのキリスト、またまことの王様として従っていました。また、ある人たちはイエス様がなさった癒しの御業を見て、自分たちも病を癒して欲しいと願ってイエス様のもとにやって来ました。ほかにも当時有名だったイエス様を一目見ようとして集まった人もいたと思われます。そのように、さまざまな思いを持った人たちがイエス様のもとにやって来て、イエス様が語られるみことばを聞き、病人を癒してもらっていました。

 イエス様は人々に福音を語られるだけでなく、弟子たちが福音を伝えることができるように訓練しておられました。ここでも、山に登って神の国について教えようとしておられましたが、群衆はイエス様がいるところを見つけて集まってきました。イエス様は、この機会を利用し弟子訓練の一環としてピリポに、「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と、尋ねられました。残念ながら、ピリポは神様により頼むことを考えませんでした。また、アンデレも、群衆が自分で食べ物を持っているか調べ、少年が大麦のパンを五つと、小さい魚を持っていることを見つけたのですが、それでは何の役にも立たないとあきらめてしまいました。

 ここで、イエス様のもとにいた人たち、つまり群衆、ピリポ、アンデレが、イエス様をどのように見ていたのか考えてみましょう。群衆は自分の願いをかなえるため、ピリポとアンデレは、約束されたキリストとして、また、一人のラビとしてイエス様を見ていたのでしょう。この時点では、だれもイエス様がまことの神様であるということを悟ることができず、自分の願いや、経験をもとに行動しているのがわかります。

ヨハネの福音書6章10~14節

10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。

11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」

13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。

14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。

(新改訳第三版)

 イエス様は男の人だけで5000人の大群衆を座らせるように、弟子に命じられました。そして、少年が持っていたパンをとり、感謝をささげてから、座っている人たちに分け与えてくださいました。また、魚も同じように分け与えてくださいました。イエス様は、そこに集まっていた人たちが十分に食べても、あまりがあるほどのパンを人々に与えてくださいました。ピリポはそこにいる人の多さを見て、めいめいが少しずつ取ることを考えましたが、イエス様は人々が欲しいだけ与えてくださいました。アンデレは、五つのパンと二匹の魚が何の役にも立たないと考えましたが、無から有を創造される神様の恵みは、目に見える数は関係なく、神様はありあまるほどに恵みを与えてくださることを示してくださいました。そして、イエス様は弟子たちにあまったパン切れを集めさせることで、このありあまるほどに与えられる神様の恵みを体験させ、彼らが主の恵みによってすべての人が生かされていることを学び、また、どんな時でも主により頼むように教えてくださいました。

ヨハネの福音書6章11節

そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。
また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

(新改訳第三版)

 イエス様は、良い牧者です。ご自身の羊が飢えているのに、そのままにするお方ではありません。羊飼いが自分の羊を緑の牧場に伏させて、良い牧草を与えるように、イエス様はご自身のもとに来た人々を座らせ、パンと魚を分け与えてくださいました。また、肉の糧だけでなく、いのちのパンであるご自身を、イエス様は与えてくださいました。そして、私たちにも同じように恵みを与えてくださるお方です。その恵みは、私たちを満たして余りあるほどです。

 ただ、私たちがこの恵みばかりに目を向けて、恵みをくださるイエス様から目を離さないように注意しなければなりません。当時の群衆は、イエス様がメシアであると期待していましたが、その真実の姿を見ようとしませんでした。イエス様を求めるのではなく、自分の目的を満たすことを求めていました。

また、私たちが、イエス様の弟子として遣わされるとき、私たちは自分が持っているものばかりに目を向けて、あきらめてしまうことがないようにしましょう。イエス様は五つのパンと二匹の魚で、男の人だけで5000人の空腹を満たすことがおできになるお方です。このお方が私たちとともに歩んでくださっていることを忘れないようにしましょう。ピリポやアンデレが、イエス様を見ないで足りないことだけを見てあきらめてしまいました。私たちは、すべてにおいて満ち満ちたイエス様がともにおられることを覚えて、イエス様を仰ぎ見て、与えられるありあまる恵みを感謝しましょう。