2022年11月20日「主を仰ぎ見て救われよ」木下淳夫 師

タイトル主を仰ぎ見て救われよ
聖書イザヤ45:22~25
説教者木下淳夫師

 今日は、「主を仰ぎ見て救われよ」というテーマです。

 すべての人は、二つの組に分けることができます。男性と女性という分け方は、みなさんもよくご存知だと思います。聖書ではイスラエルの民と異邦人という分け方があります。この分け方が意味していることは、まことの神様である主を知って主に従う人か、主を知らず、主に逆らう人かという分け方です。

 今日は、聖書がなぜこのように人を分けているのかということを学び、私たちも幸いを受ける組に入りたいと願っています。

イザヤ書45章22〜25節

22 地の果てのすべての者よ。

わたしを仰ぎ見て救われよ。

わたしが神である。

ほかにはいない。

23 わたしは自分にかけて誓った。

わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。

すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、

24 わたしについて、

『ただ、主にだけ、正義と力がある』と言う。

主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。

25 イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る。」

(新改訳第三版)

 まことの神様である主は、イスラエルの神様になられると、主ご自身が宣言されました。イスラエルの民が、主を見出し、あるいは主という神様を作り出して、主を信仰するようになったのではありません。なぜイスラエルだけをお選びになったのかという疑問があると思います。それは、アダムが犯した罪のために、すべての人は、主との交わりが断たれてしまったからです。ただ、一部の人たちは主を求め続けていました。ですから、ノアの時代に地上に悪が満ちてしまったときでも、ノアは主を求める人でしたから、主から方舟を造るようにという語りかけを聞き、大洪水から救われました。しかし、ノアの子孫たちもだんだん主から離れ、自分たちで神々を造りだし、主を求める人はどんどん少なくなってしまいました。その中で、主はアブラハムに御目をとめられました。そして、主はアブラハムの神となってくださいました。ですから、アブラハムの子孫であるイスラエルの民は、主の民としていただいています。

 では、聖書がすべての人を、主の民と異邦人の二つに分けているのはどうしてでしょう。それは、救いを受けることができるか、できないかという、大きな問題があるからです。人間は主と共に永遠に生きるものとして創造されました。しかし、アダムが犯した罪のために、すべての人は罪を持って生まれるようになりました。その罪が人を創り主である神様から切り離してしまいます。神様から離れてしまった人は、正しい生き方がわかりません。そのため、自分では気づかないうちに悪を行い、神様から御怒りを受けることになってしまいます。その御怒りというのが、永遠の滅びです。救いは、人間が気づかないうちに歩んでいる永遠の滅びから、神様が助け出してくださり、永遠の命を受けて天の御国で主とともに生きることを意味しています。

 主はこの地上のすべての人に呼びかけておられます。

イザヤ書45章22節

地の果てのすべての者よ。

わたしを仰ぎ見て救われよ。

わたしが神である。

ほかにはいない。

(新改訳第三版)

この地上の人々は、主を知らずに主の民であるイスラエルに敵対します。しかし、主はご自身の民であるイスラエルを救うと約束されました。誓いを立てるとき、人間ならば全てを知っておられる真実な神様にかけて、自分の言葉が正しいことを誓います。主は真実なお方です。決して偽りはありません。また、ほかにそのような神様はありません。ですから、主はご自身にかけて誓いを立て、その契約を成就されます。その結果、主に敵対した人は恥じ入り、主の民は、主によって義とされ誇るようになります。

 はじめにすべての人は二つの組に分けられると申し上げましたが、私たちも主の民か、主に敵対する民のどちらかに入ります。残念ながら、私たち日本人は、もともと異邦人であり、主を知らずに主の御心を痛めていた民です。しかし、そのような私たちにも、主は「わたしを仰ぎ見て救われよ。」と呼びかけてくださっています。

 主がすべての人の中からノアやアブラハムを個人的にお選びになったことを思い出していただければわかると思いますが、国の宗教がキリスト教だからとか、仏教だからということが理由で、その国民が主の民だというわけではありません。主は一人ひとりが、主の呼びかけに応えて「ただ、主にだけ、正義と力がある」と認めて、自分の罪を告白し、イエス様こそ私たちの罪を洗いきよめてくださったお方であることを信じて、イエス様の十字架を仰ぎ見る人を救ってくださいます。

 モーセの時代に罪を犯したイスラエルの民は、燃える蛇によってさばきを受け、多くの人が命を落としました。しかし、主はモーセに青銅の蛇を作り、それを木にかけて高く掲げるように命じ、その蛇を仰ぎ見るなら生きると約束されました。本当にそんなことで助かるだろうかと思うかもしれません。しかし、主はそのように、人々の信仰をご覧になります。

 今、私たちは十字架に上げられた主イエス様を仰ぎ見るなら救われるという約束を信じて永遠のいのちをいただいて生きるか、信じないで滅びの道を歩み続けるかの分かれ道にいます。どうぞ、主の呼びかけを聞いて心を開き、主にあって正しい人、誇りを受ける人にしていただきましょう。