タイトル | キリストのために生きる |
聖書 | 2コリント5:11~15 |
説教者 | 木下淳夫師 |

今日は、「キリストのために生きる」というテーマです。
パウロの伝道者としての生涯は、苦難の連続でしたが、それでもパウロは伝道し続けました。それは、パウロが、復活のイエス様に出会って確信した事実に基づいた行動でした。
私たちも、パウロが確信した事実を再確認して、パウロのように苦難の中でも絶望することなく、力強く生きる力をいただきたいと願っています。
コリント人への手紙第二5章11〜13節
11 こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。
12 私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。
13 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
(新改訳第三版)
パウロは、自分が何をしてきたのか、神様の御前には明らかであるので、自分には恐れがありません。しかし、多くの人が、キリストのさばきの座に立つときにさばきを受けることを知っていましたから、パウロは命がけで伝道しました。そして、伝道の結果イエス様を信じた人たちが、この世にあっても主に喜ばれる生き方、つまり、主を愛し、隣人を愛して生きることを願って、彼らを導いていました。ところが、パウロが使徒であることを疑う人たちによって、教会が混乱してしまったので、パウロは信徒たちの良心が目覚め、自分が主イエス様から権威を授けられた使徒であることが明らかになり、彼らもイエス様に従うものになることを願っていました。
それは、自分のためではありません。信徒一人ひとりが、キリストの権威に逆らい、うわべのことを誇りとする人たちに、しっかりと対応することができるようになるためです。
パウロが命をかけてまで、イエス様の十字架の死と復活を宣べ伝える姿は、ある人たちから見ると、気が狂っていると思えることでした。死者がよみがえるなど信じがたいことだからです。しかし、パウロは父なる神様が、イエス様をよみがえらせてくださったことが真実であること、よみがえられたイエス様が、自分に現れてくださったからこそ、パウロは人々に気が狂っていると思われても福音を語り続けました。それは、ただあなたたちが永遠のいのちを得て、この世において主の教えを守り、御国において神様からの報酬を受け取って欲しいと願っていたからです。
コリント人への手紙第二5章14〜15節
14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
(新改訳第三版)
そこまで、パウロが信徒のために全力を尽くすのは、キリストの愛が取り囲んでいるからです。パウロは、キリストの愛に捕らえられ、救いを宣べ伝えずにはいられなかったからです。
パウロが、命がけでイエス様に従い、福音を宣べ伝えるに至ったのは、次のように結論を出したからです。
14〜15節「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
パウロは、自分のために生きるのではなく、自分のために死んでよみがえったイエス様のために生きることが、自分のなすべきことであると結論を出したので、宣教にいのちをかけていました。
イエス様がすべての人のために死んだなら、すべての人は、すでに罪のためにさばきを受けて死んでいることになります。そうすると、今キリストを信じる信仰によって、永遠のいのちをいただき、この世においても神様の恵みによって生かされているのなら、キリストのために生きることが、救いをいただいた信徒の生き方であると教えています。
パウロは、ガラテヤ人への手紙2章20節でこのように述べています。
ガラテヤ人への手紙2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(新改訳第三版)
私たちは、自分の人生をどのように生きようと考えているでしょうか。よく「死ぬ気になればなんでもできる」と言われますが、イエス様を救い主と信じたなら、私たちはすでにキリストとともに十字架につけられ死んでいます。ですから、私たちはイエス様を信じる信仰によって生かされているのですから、イエス様に従って生きるべきです。キリストに従う生き方は、この世では苦難があるかもしれません。しかし、すべてをご存知の主は、私たちの思いを超えた祝福を用意して、天の御国で待っていてくださいます。見えることだけにとらわれず、私たちとともにいてくださるイエス様により頼んで歩んでまいりましょう。