2022年1月16日「この世がすべてではない」木下淳夫 師

タイトルこの世がすべてではない
聖書2コリント5:6~10
説教者木下淳夫師

 今日は、「この世がすべてではない」というテーマです。

 私たちの人生は一度きりです。この一度しかない人生ですが、人によっては死んでしまったらすべてがおしまいなので、生きているうちに楽しまないと損だという人もいます。しかし、この世界を創造した神様から、この世の先にあることについても啓示を受けたパウロの生き方、また教えを学び、今の生き方を考えたいと願っています。

コリント人への手紙第二5章6〜8節

6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。

7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。

(新改訳第三版)

 私たちは、将来について不安を抱くことがあります。しかし、これからどこへ行くのか、何が起こるのかがわかっていれば、心配することはありません。そのように、パウロはこの地上での生涯の後に、主とともに栄光のからだを持って過ごす、永遠があることを知っていましたので、恐れはありませんでした。

 ただ、このときのパウロは、まだ肉体を持って地上にいました。ですから、天の御国にいるような、主との親密な関係はありません。もちろん、この地上においても、聖霊様が一人ひとりのうちに住んでくださいますので、主から遠く離れているわけではありません。信仰によって、主がともにいてくださるということを、パウロは誰よりもよく知っていましたが、パウロが求めていた主との交わりは、顔と顔を合わせた交わりでした。主との親密な交わりのためには、肉体は妨げになっていました。ですから、やがては朽ちてしまう肉体を離れて、朽ちることのない栄光のからだに変えていただき、主のみもとにいることをパウロは切望していました。

コリント人への手紙第二5章9〜10節

9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

(新改訳第三版)

 パウロは信徒に、みことばに従った信仰生活をするように教えていました。この地上で忠実な信仰生活をすることは、信徒にとってとても大切なことですが、パウロは、この地上を離れて主とともにいることを切に願っていました。それは、肉体を持っている、持っていないに関わらず、主に喜ばれること、主のみ心にかなった歩みをすることこそ信徒にとって大切なことだからです。

コリント人への手紙第二5章10節

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

(新改訳第三版)

 イエス・キリストを信じて信仰を持った聖徒たちが、罪を離れてみことばに従うのは、やがてキリストのさばきの座で、善であれ悪であれ肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

 死んでしまうと、すべてがおしまいというのではありません。最後の審判のときに、すべての人はキリストの前に出て、肉体においてした行為について、さばきを受けることが定められています。だからこそ、この地上で、主に喜ばれることをすることが大切です。また、たとえ主に喜ばれようとした結果、自分の肉体が滅ぶことになったとしても、それは虚しいことではなく、主に喜ばれることであり、キリストのさばきの座で報いを受けるようになります。だからこそ、パウロはキリストのためにいのちを捨てることも恐れませんでした。

 

 今日、覚えていただきたいことは、「この世の生涯がすべてではない」ということ、そして、「肉体にあって行ったことに応じて報いがある」ということです。

 一つ目、「この世の生涯がすべてではない」ということです。

 パウロが、この世でどれほどの困難に直面しても、希望を持ち続けることができたのは、肉体を離れた後、イエス様が栄光のからだを持ってよみがえられたように、パウロも栄光のからだでよみがえるという希望があったからです。この希望は、イエス様を救い主と信じた私たちすべての信徒にも与えられています。見えるところによって歩んでいると、一寸先は闇ですから、不安がいっぱいです。しかし、主のみことばに信頼して信仰によって歩むなら、平安があります。みことばによって約束されている「からだのよみがえり」、栄光のからだでの復活を期待して、主との親密な交わりを待ち望んでまいりましょう。

 もう一つ、「肉体にあって行ったことに応じて報いがある」ということです。

善であれ悪であれ、主はすべてをご覧になっています。そして、その行いにふさわしい報いを与えられます。ですから、この世での一つ一つの行いが、どれほど大切かがわかります。与えられている時間、与えられている機会を感謝して、主に喜ばれることは何か、つまり、主を愛すること、隣人を愛すること、互いに愛し合うことは何か、祈りつつ行動しましょう。そのためには、イエス様なら、このようなときどうされるだろうかと、考えることは良い行動につながります。福音書を通して教えられるイエス様の行動をよく学び、主が備えてくださっている祝福を受け取らせていただきたいと願います。