2021年12月5日「ヨセフの希望」木下淳夫 師

タイトルヨセフの希望
聖書マタイ1:18~25
説教者木下淳夫師

 今日は「ヨセフの希望」というテーマです。

 ローマに支配されていた時代を生き、また、妻が一緒に暮らす前に妊娠するという信じられないような出来事に直面したヨセフが、どのような希望を持っていたのか、また、そのヨセフに神様がどのように応えてくださったのかを学ばせていただき、私たちも希望を持ちたいと願っています。

マタイの福音書 1章18〜19節

18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリアはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

(新改訳第三版)

 当時のユダヤ人の結婚は、花婿と花嫁の父親が同意して、花嫁料を支払うことで婚約が成立します。この婚約によって花婿と花嫁は法律上、夫婦になります。しかし、その後最低1年間は婚約期間としてそれぞれ親元で暮らします。ですから、マリアがヨセフの妻と決まっていたけれども、ふたりがまだ一緒になっていないというのは、花嫁料が支払われて法律上は夫婦になっていたけれども、一緒に暮らす前の婚約期間だったということです。そのような別居している期間に、花嫁が妊娠したのですから、ヨセフはマリアが姦淫の罪を犯した思いとても悩みました。なぜなら、姦淫の罪を犯したなら、たとえ夫が妻を許しても、律法によってその女性は石打ちによって処刑されるからです。

 ヨセフは神様の御目からご覧になって正しい人、神様に喜ばれる人でした。主を愛し、隣人を愛する人でした。ですから、ヨセフはマリアをさばくのではなく、彼女を助けたいと願い、内密に去らせようと決断しました。

マタイの福音書 1章20〜21節

20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

(新改訳第三版)

 ヨセフがマリアを大切に思い、助けようと思いめぐらしていたとき、ヨセフの夢の中に主の使いが現れました。そして、主の使いはヨセフに二つの命令を与えました。一つは、ヨセフが夫として、妻であるマリアを迎えて一緒に暮らすということ、もう一つは、ヨセフが父親として生まれてくる男の子にイエスという名前をつけるということです。マリアを迎えることについては、彼女が罪を犯しているかもしれないという大きなリスクがありました。しかし、主の使いは、マリアは罪を犯したのではなく、聖霊によって妊娠しているのであり、その子は神様の子どもであると告げました。そして、生まれてくる子どもの名前がイエスというのは、この幼子がやがて成長して、ご自分の民をその罪から救ってくださるからです。

マタイの福音書 1章22〜25節

22 このすべての出来事は、主の預言者を通して言われた事が成就するためであった。

23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、

25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

(新改訳第三版)

 処女降誕という出来事は、常識では考えられない出来事です。ですから、この福音書の著者であるマタイは、マリアが夫ヨセフと一緒になる前に聖霊によってみごもったことが、預言者によって言われたことの成就であると読者に伝え、神様が以前から計画しておられたことの成就だと説明しています。

 そして、バビロンによって南ユダ王国が滅ぼされたときに、主の臨在がこの地上から消えたために希望を失い、暗闇を歩んでいたイスラエルの民に、主が再びイスラエルの民のもとに帰って来て、神様がともにいてくださるという希望の約束が、おとめマリアを通して成就したのだと、マタイは預言のみことばによって説明しています。そして、ヨセフは、主の使いが命じた通り、夫として妻マリアを迎え、父親として生まれてきた男の子にイエスと名付けました。

 ヨセフは、絶体絶命の危機に陥っていたのですが、そのような中でも主を愛し、隣人を愛することは変わりませんでした。それは、人から教えられたからそのように振舞っていたのではなく、礼拝や祈りを通して神様との交わりをする中で、神様が真実なお方であること、人々を愛してくださっているお方、力ある神様であることを知っていたからです。だからこそ、ヨセフは困難な中でも、主ご自身に希望を持つことができました。たとえ、マリアを去らせたとしても、マリアが生きられる保証はありません。それでも、ヨセフは主が守ってくださることに希望を持って決断しました。しかし、主はヨセフの思いをはるかに超えた恵みを与えてくださいました。すべての人を罪から救う救い主、約束された永遠の王が自分とマリアの子どもとして与えられるという驚くべき祝福をヨセフはいただきました。

 ヨセフが受けた祝福は、今、私たちの祝福にもなりました。私たちを罪から救ってくださるお方、私たちとともにいてくださる神様、インマヌエルであるイエス様が、どのような困難な中にあっても、私たちに希望を与えてくださいます。ヨセフに希望を与えてくださったイエス様は、私たちとも一緒にいてくださいます。ですから、主イエス様に信頼して歩むなら、私たちの思いを超えたすばらしい祝福があります。ともにいてくださる神様、インマヌエルの主に希望を持って、インマヌエルであるイエス様の光に従って、この世の旅路を歩んでまいりましょう。

コリント人への手紙第二 4章16〜18節

16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

(新改訳第三版)