タイトル | 御霊なる主の働き |
聖書 | コリント人への手紙手紙第二 3:12~18 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日のテーマは、「御霊なる主の働き」です。
イエス様が与えてくださる助け主、聖霊様は私たちに様々な恵みを与えてくださいます。今日は、その中でも、私たちをあらゆる束縛から解放して自由を与え、イエス様に似た者へと造り変えるという素晴らしい働きをしてくださることを、みことばから学ばせていただきます。
コリント人への手紙第二 3章12〜15節
12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。
13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。
14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
(新改訳第三版)
このような望みというのは、11節にある「もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。」という望みです。モーセが、やがて消え去る律法に仕える働きをしていたのに神様の栄光を受けていたのなら、人にいのちを与え、永続する神の御霊に仕える働きには、なおさらに大きな栄光があると、パウロは望みを持って宣教の働きを行っていました。ですから、パウロは大胆に福音を語りました。また、律法学者たちが、律法を誤解して間違った教えを伝えていることも、はっきりと指摘し、イエス様の教えに従って生きるように信徒を導きました。
モーセが神様から与えられた栄光は、彼の顔を輝かせたので、人々はモーセを見ることができないほどでした。ですから、モーセは顔におおいを掛けました。しかし、一方でモーセが顔におおいを掛けたのは、自分に与えられた栄光が消えていくところを人々に見せないようにしたからでした。パウロは御霊によって与えられた神様の栄光は、決して失われることがないので、おおいをかける必要がないと言っています。
モーセの時代から、パウロの時代までイスラエルの人たちは、律法を熱心に守ってきました。しかし、彼らは本当の神様の栄光を見ることはありませんでした。なぜなら、モーセの顔におおいが掛けられていたように、会堂で律法が朗読される時、律法を解き明かす指導者たちにはおおいが掛けられた状態で、真理を語ることがなく、神様の栄光を現していなかったからです。そのため、イスラエルの民は真理を悟ることができず、律法を通して示される自分の罪、汚れに縛られ自由を失っていました。
コリント人への手紙第二 3章16〜18節
16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(新改訳第三版)
イスラエルの人々は、自分では選ばれた神の民として、神の国に入る約束を確信しているつもりでも、律法を学ぶことによって自分の罪を示され、確信を失っていました。しかし、そのような失望の中にある人でも、主ご自身に立ち返るなら、おおいが取り除かれ、神の国に入る道を見いだすことができます。自分の力では、神の国への道を造ることはできません。ただ、道であり、真理であり、いのちであるイエス様のもとに立ち返ることによって救われます。イエス様は私たちを愛してくださり、十字架で血を流すことによって、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与え、また、助け主である聖霊様を与えてくださり、神の国へと導いてくださいます。
聖霊様が私たちの内に住んでくださると、文字に縛られて自分の罪を嘆く、罪の奴隷から解放され、自由を得ることができます。自由は自分の好きなように生きることではありません。自由とは、罪の奴隷となって、神様が望んでおられることをしたくてもできなかった状態から解放されて、何の妨げもなく、神様の御心に従うことを、自分で選ぶことができることです。御霊が与えられていない時代に、イスラエルの民が律法を守ることができなかったのは、人間が罪の奴隷となっていたからです。その奴隷状態から解放するために、神様は律法を通して、いけにえを捧げることを命じられましたが、いけにえによって罪を赦され解放されるのは一時的なことでした。しかし、キリストの恵み、御霊による自由は、いつまでも失われることはありません。神様が与えてくださる栄光も消えることがありませんので、おおいを掛けて栄光が消えていくことを隠す必要もありません。
ただ、与えられた栄光を鏡のように反映させ、人々にいのちの光を伝えることができます。そして、自分自身も栄光から栄光へと、主と同じかたちへと変えられます。これが御霊なる主の働きです。
皆さんは自由ですか?本当は良いことだとわかっていてもできないことはありませんか?自由とは、自分から進んで善であり、愛である神様の御心に従うことです。自分の意思で神様が願っておられる良い行いをすること、主を愛し、隣人を愛することです。私たちを束縛から解放してくださる方は、イエス様だけです。イエス様が与えてくださる約束の御霊が、私たちの内に住んでくださるなら、私たちは自由に主と共に歩むことができます。御霊なる主が働きかけてくださり、私たちを栄光から栄光へ、イエス様に似た者へと変えてくださいます。ですから、イエス様を疑って自分におおいをかけないように注意しましょう。そして、神様が与えてくださる栄光を鏡のように反映させて、私たちの側にいる人たちに神様の御愛と恵みを届けていきたいと願います。