タイトル | 残された時を有益に生きる |
聖書 | 1ペテロ4:1~6 |
説教者 | 木下淳夫師 |
不思議なもので、明日も明後日も、同じ生活が続くと思っていると、何も意識しないで過ごしてしまいがちですが、終わりが見えると、生活の仕方も変わります。3月は卒業、転勤、引越しなど、生活環境が変わる人にとっては、今まで慣れ親しんだ環境での残された時間を大切にする時期だと思います。
そこで、今日は、「残された時を有益に生きる」というテーマです。私たちの生涯はいつまでも続くものではありません。必ずこの世を離れる時が来ますので、その時を覚えて残された時を有益に過ごしたいと願っています。
ペテロの手紙第一4章1〜2節
1 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。
2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
(新改訳第三版)
聖書は、苦難の中でも善を行うことを命じています。しかし、苦しい時は自分のことで精一杯です。そのような中でも、神様の御心を行うことを第一とするためには、イエス様の十字架の死と復活、また、イエス様が一切の権威を持って父なる神様の右の座に着いておられることを覚えなければなりません。
イエス様は、十字架の死にいたるまでの苦しみを受けられました。しかし、父なる神様は、イエス様をよみがえらせてくださり、高く引き上げてくださいました。そして、イエス様は、イエス様を信じて従う者にも、同じ恵みを与えてくださることを約束してくださいました。その信仰の誓いとして受けたのが、バプテスマです。
バプテスマは一つになることを意味しています。新約の時代に、信徒が受けるバプテスマは、イエス様が十字架で死んでよみがえられたこと、そして、イエス様こそ救い主であり、イエス様を信じるなら罪が赦され、永遠のいのちを得るという約束を信じて受けます。ですから、信徒はイエス・キリストの死と結び合わされ、信徒も肉体においては死に、霊においてはキリストの復活に与かり、死に勝利して永遠のいのちを受けます。このキリストの死と復活を覚えて、この世で苦しみを受けることがあっても、信仰を持ってキリストにならうように命じられています。
また、人間は死ぬとすべての契約から解放されるということは大切なことです。救いに与るまで私たちを束縛していた罪や死も、私たちがキリストともに死んだのですから、もはや束縛する力を持ちません。この真理を覚える時、苦しみの中で罪の誘惑があっても、私たちは善を行うことができます。
私たちはどのように生きるのかという選択をします。そのとき、罪の奴隷になっていたら、罪を犯す以外の選択肢はありません。しかし、救いに与った人は、自由に行動することができます。その自由を、自分の欲望のために用いるのではなく、神様のみこころを行い、神様の栄光を現すために用いることこそ、私たちにとって最善の生き方となります。
ペテロの手紙第一4章3〜6節
3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。
4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。
5 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。
6というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。
(新改訳第三版)
神様を知らない人たちは、この世で自分がやりたいと思うことを行います。ただ、それが良いことか、悪いことか、立ち止まって考えることは、あまりしません。もちろん、それらが造り主である神様のみこころを痛めていたとしても、まったく気づきません。
しかし、救いに与かり神様の子どもにしていただいた信徒は、正しい行いを知ることができますから、多くの人と一緒に悪い行いをしません。そのため、世の人たちは、信徒が度を越した行いをしないので、不思議に思い、悪口を言います。そのような場合でも、覚えておかなければならないことは、すべての人間は神様の御前で、自分の行動の正当性を説明をしなければならないということです。「みんながしているから」というのは理由になりません。
神様は、すべての人をさばかれます。ですから、すべての人が肉体は罪を犯した結果としてさばきを受けて死にますが、霊においては神様の恵みによって生きるように、福音が伝えられています。その福音を聞いて、悔い改めるか、罪の奴隷のままでいるのかは、その人に委ねられています。
この世で生きていくことは楽しいことばかりではありません。どちらかというと、辛いことの方が多いかもしれません。ですから、イエス様に出会い、救いに与かり、天国の素晴らしさを知ったら、早く天国へ行きたいと思うかもしれません。それでも、神様は私たちをすぐに天国へ招いてくださるのではなく、しばらくの間、地上にお遣わしになりました。
2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
この与えられた地上での時間を、どのように過ごすのか、私たちが決めなければなりません。この世と調子を合わせて、自分勝手に生きるのか、神様のみこころのために生きるのか、日々選ばなければなりません。また、自分が選んだ生き方に責任を持ち、終わりの日には神様の御前で説明しなければならないことを忘れてはいけません。ですから、私たちは、イエス様が模範を示してくださったように、苦しみを受ける時も、罪を犯さずイエス様と同じ心構えで準備を整え、神様のみこころのために働いてまいりましょう。