2020年9月6日「神様の選び」木下淳夫 師

タイトル神様の選び
聖書1サムエル16:6~13
説教者木下淳夫師

 

今日は、神様の選びというテーマで、ダビデをお選びになった主のみことばから、主は私たち人間をどのようにご覧になっているのかということを学び、日ごろから主に喜ばれる行動をしたいと願っています。

サムエル第一16章6〜16節

6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。

7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

8 エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前に進ませた。サムエルは、「この者もまた、主は選んでおられない」と言った。

9 エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、「この者もまた、主は選んではおられない」と言った。

10 こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んではおられない。」

(新改訳第三版)

 イスラエルには、最初の王としてサウルが立てられました。しかし、サウルは主に忠実に従わなかったため、主はサウルをイスラエルの王位から退けて、新しい王をお選びになりました。そして、サムエルは、主が新しい王にお選びになった人に油を注ぐように命じられ、ベツレヘムにいるエッサイのところへやって来ました。サムエルは、エッサイに、主にいけにえを捧げるので、彼の子どもたちを連れてくるように命じました。

 エッサイの長男エリアブは、容貌も立派でサムエルが思い描いていた王にピッタリの人物だったのでしょう。サムエルは、エリアブを見てこの人が新しい王に違いないと思いました。

ところが、主は「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」とおっしゃって、サムエルが考えていた王のイメージと、主がお選びになる王は異なることを教えられました。サムエルの前には、エリアブに続いて、エッサイの子どもたちが連れてこられましたが、主は彼らを選んではおられませんでした。

サムエル第一16章11〜13節

11 サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」

12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」

13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

(新改訳第三版)

 サムエルは、エッサイに、ほかに子どもがいないか尋ねました。すると、エッサイは、まだダビデがいると答えました。ダビデは一人で羊の世話をしていて、兄たちが呼ばれても、彼だけは呼ばれることがありませんでした。

 ところが、このダビデがサムエルの前に連れてこられると、主は「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」とおっしゃって、サムエルもダビデに新しい王として選ばれたことを示す儀式として油を注ぎました。

 ダビデにはその日以来、主の霊が激しく下さったと記されています。ダビデは、主がお選びになった器として、新しい人生を歩み始めました。

 主がダビデをお選びになったのは、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」ということから、ダビデの心が主の御心にかなっていたからだとわかります。人は外見で人を判断します。しかし、主は外見ではなく、心をご覧になります。主のために何をするのかということも大事ですが、それよりも、どういう動機でするのかということが大切だということです。

 イエス様は「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るから。」(マタイ5:8)とおっしゃいました。イエス様は「神を見る」とおっしゃいましたが、人間が神様を見るためには、神様からご自身を啓示していただかなければ見ることはできません。ですから、心がきよく、いつも主に喜ばれることをしたいと願っているなら、主はその人の心をご覧になり、ご自身を現わしてくださるということです。ダビデはまさにそのような人でした。羊を飼うという日常ではありましたが、ダビデの心はいつも主への感謝と愛に満ちていました。

 私たちも、日々それぞれの働きが与えられています。それは直接神様への奉仕につながっていないかもしれません。しかし、その中で主の恵みに感謝し、主に喜ばれることを願いながら働くとき、私たちの心を主はご覧くだり、ご自身を現わしてくださいます。私たちもダビデのように、主に心を見ていただいて、主との深い交わりをいただき、さらに祝福された歩みをさせていただきたいと願います。