タイトル | いのちは人の光 |
聖書 | ヨハネ1:1〜5 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日は、「いのちは人の光」というテーマです。
みなさんは暗闇を経験したことがありますか?普段の生活ではどこかに明かりが付いているので本当の暗闇を経験することはないと思います。しかし、まったく光がないところにいると、自分がどこにいるのかすらわかりません。霊において、暗闇の中にいるということも同じで、自分がどこにいるのか、どこに行くのかわからない状態です。今日は、そのような危険から、イエス様が私たちを救ってくださったことを覚えたいと願っています。
ヨハネの福音書1章1〜3節
1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
(新改訳第三版)
ヨハネは、イエス様のことを「ことば」と表現しました。これは原語であるギリシャ語では「ロゴス」と記されています。また、ヨハネがユダヤ人であることを考えると、ヨハネはヘブル語の「ダバール」、あるいはアラム語の「メムラ」を、ギリシャ語訳したと考えられます。
当時のラビたちは「ことば」を意味するアラム語の「メムラ」を、ただの「ことば」と考えず、彼らが礼拝している神様とは別の存在であるけれどもまことの神様であり、天地創造に参加したお方、救いの代理人、仲介者であると考えていました。
つまり、当時の人たちにとって「ことば」は、それ自体が神様であるという特別な意味を持っていて、ヨハネは、人となってこの世に現れたイエス様こそ、その「ことば」であるお方だとしています。
天地創造のみわざは、父なる神様がなされたのですが、神様がことばによって全てを創造されたことを思い出してください。「光あれ。」「大空の水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」のように、この天地は神様のことばによって創造されました。つまり、ことばなるイエス様がこの世界をお造りになったということです。
ヨハネの福音書1章4〜5節
4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
(新改訳第三版)
イエス様は永遠のいのちを持っておられることが記されています。そして、イエス様が持っておられる永遠のいのちこそ人間の光です。人間は永遠のいのちを持っていなかったなら、この世でいくら楽しく過ごしていたとしても、霊においては暗闇です。肉体を離れた後に、霊は燃える火の池で、永遠に苦しまなければならなくなります。この恐ろしい最後を、多くの人は知らないで生きています。
霊において暗闇に囚われているすべての人を救うためにイエス様はこの世に来られました。イエス様のいのちの光は、暗闇の世に輝きました。そして、罪と死、また悪魔といったこの世を支配している闇の力は、イエス様に打ち勝つことはできませんでした。イエス様は、十字架の死と復活によって、すべての人の罪をあがない、イエス様を信じる人に永遠のいのちを与えると約束してくださいました。この救いの恵みによって、いのちの光がこの世に輝きました。イエス様が灯してくださった光は、エルサレムから始まり、ユダヤ、サマリヤ、地の果てにまで広がって、今も世界中で輝いています。
ヨハネの福音書1章4節
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
(新改訳第三版)
今日、覚えていただきたいことは、イエス様がこの世界の創造主であり、永遠のいのちの源であるということです。そして、永遠のいのちこそ、私たちの光であるということを覚えましょう。
私たちは光がなければ、自分がどこにいるのか、どこへ行くのかわかりません。また、何もすることができません。永遠のいのちを持たない人たち、つまり、イエス様の救いに与かっていない人は、自分がどこから来たのか、どこにいるのか、そして、どこへ行くのかを知りません。ですから、その時はよくても、自分が滅びに向かっていることにも気づきません。だからこそ、すべての人は、霊における光が必要です。永遠のいのちが必要です。そのいのちは、イエス様だけが持っておられ、イエス様を救い主と信じて従うなら、だれでも永遠のいのちをいただくことができます。
みなさんは、このすばらしい永遠のいのちをいただいています。しかし、一つだけ注意してください。光を持っていても、光が照らしている方を向いていなければ意味がないということです。ですから、恵みによって与えられた永遠のいのちという光を、いつも忘れることがないように、命の源であるイエス様から目を離すことがないようにしましょう。いのちの光が輝くなら、決して暗闇のなかで迷うことはありません。