2025年10月26日「イエス様はだれも失わない」木下淳夫 師

タイトルイエス様はだれも失わない
聖書ヨハネ18:1~11
説教者木下淳夫師

今日のテーマは、「イエス様はだれも失わない」です。

今日は、ゲッセマネの園で、イエス様を捕らえるためにやって来た大勢の人たちを前にして、イエス様が語られたみことばに耳を傾け、イエス様の愛の深さを再確認させていただきたいと願っています。

ヨハネの福音書18章1~11節

1 イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。

2 ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。

3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。

4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。

5 彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。

6 イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。

7 そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。

8 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」

9 それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」とイエスが言われたことばが実現するためであった。

10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。

11 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」

(新改訳第三版)

 ヨハネの福音書では、この場所の名前は出ていませんが、他の福音書ではゲッセマネの園と記されています。この場所はイエス様が弟子たちと会合をするのに利用していた場所でした。ですから、ユダもイエス様なら、過越しの食事が終わったら、この場所に来ると予想して、祭司長、パリサイ人たちから遣わされた神殿を守る役人たち、また、一隊のローマの兵士たちを連れて、この園にやって来ました。

 イエス様は、大勢の人たちが園にやって来たのを見て、すぐに彼らが自分を捕らえに来たことを悟られました。そして、彼らに「だれを捜すのか」と尋ねられました。彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えたのですが、イエス様は「それはわたしです」とおっしゃって、まったく逃げようとはされませんでした。

 イエス様が「それはわたしです」とおっしゃったことで、役人たちは後ずさりして倒れてしまいました。それはイエス様がおっしゃった「それはわたしです」という言葉が、ギリシャ語では「エゴーエイミ」、日本語に直訳すると「わたしはある」、つまり、出エジプト記で主がご自身のことを「わたしはある」とおっしゃたのと同じ言葉だったからです。役人たちは、神様の権威に恐れを抱いて、地に倒れてしまいました。

 イエス様は、彼らにもう一度「だれを捜すのか」と尋ね、同じ会話が繰り返されました。そして、イエス様は彼らがイエス様を捕らえに来たことを確認してから、彼らが弟子たちに危害を加えることがないように、「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」と、命じられました。

 それでも、ペテロはイエス様を守りたい一心で剣を抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、彼の耳を切り落としました。しかし、イエス様は彼の傷ついた耳をいやし、ペテロには、剣を治めるように命じられました。実は、ユダが連れて来た人というのは、当時の一隊のローマの兵士が400人以上で構成されていましたから、弟子たちがどんなに抵抗しても勝ち目がないことは明らかでした。

ヨハネの福音書18章8節

「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」

(新改訳第三版)

まことの神様であるイエス様は、弟子たちに危害が及ぶことがないように、気を配っておられました。「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」と、イエス様がおっしゃったことが成就するためです。また、ペテロによって耳を切り落とされた大祭司のしもべも、イエス様はいやしてくださいました。さらに、これだけ大勢の人を連れてイエス様を捕らえに来たイスカリオテのユダに対しても、イエス様は敵意を向けることはありませんでした。それどころか、マタイの福音書を見ると、イエス様はユダに対して「友よ」と呼びかけておられます。もちろん、イエス様はまことの神様ですから、何百人の兵士がいても、彼らを一瞬で滅ぼすこともおできになります。しかし、そのようなこともなさいませんでした。

それは、すべての人を救うために、十字架への道を歩まなければならなかったからです。この世には神様の御目から見て義人だと言える人はいません。だれもが罪の奴隷であり、御怒りを受けなければなりません。だからこそ、イエス様は一人の人も滅びに至ることがないように、ご自身がすべての人の罪のため、贖いのいけにえをなってくださいました。

今日、イエス様のこの愛は、私たちにも注がれています。イエス様は私たちが滅ぶことを望んではおられません。イエス様の十字架の苦しみが、私たちへの愛から出ていることを覚えて、十字架の愛にとどまりましょう。そして、そのイエス様の愛と恵みを、一人でも多くの人に宣べ伝えてまいりましょう。