2022年8月7日「永遠に立つ神様のみことば」木下淳夫 師

タイトル永遠に立つ神様のみことば
聖書イザヤ40:6~11
説教者木下淳夫師

 今日は、「永遠に立つ神様のみことば」というテーマです。

 さまざまな価値観が存在する現代において、本当に信頼できるものは、永遠に変わることがない神様のみことばであるということを再確認して、主に従って生きたいと願っています。

イザヤ書 40章6〜8節

6 「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。

8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

(新改訳第三版)

 イザヤにこの預言が与えられたのは、バビロン捕囚の前です。ですから、主が呼びかけるように命じた相手は、将来バビロンで捕囚となっているイスラエルの民、さらにその後の時代に、ローマの支配下にあるイスラエルの民、また、すべての時代において、困難の中にいる神の民です。主ご自身がイザヤを通して伝えたいと願っておられたことは、すべての人は草のように、弱く儚い。永遠に変わることなく立つ神様のみことばに信頼しなさいということです。

 この世で努力して栄光を手に入れたとしても、やがてそれらは失われます。それだけではありません。自分自身の命に関しても、自分の力で生きていると思っていても、ある日突然その命が失われることがあります。それほど、この世における人生は儚いものです。しかし、この儚い世にあって変わらないものが存在することを、主は預言者イザヤに、また、このみことばを聞いた人に呼ばわるように命じておられます。そのいつまでも変わることがないもの、永遠に立つものこそ、主なる神様のみことばです。

 人間は神様の息吹によって生かされているのであり、神様の定めに従ってその生涯を終えます。だからこそ、困難な時こそ自分自信の傲慢な態度を悔い改めて、へりくだって主と共に歩むことを、全ての人に知らせるように、主は「呼ばわれ」と命じておられます。

イザヤ書 40章9〜11節

9 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」

10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。

11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

(新改訳第三版)

 イスラエルの民に良い知らせを伝える者たちに、力の限り声をあげるようにと命じられています。良い知らせについて具体的には記されていませんが、「見よ。あなたがたの神を。」とあることから、神様に目を向けることが大切であることがわかります。また、「あなたがたの神」ですから、イスラエルの民が主を捨てていても、主ご自身がイスラエルをご自身の民とし、主が彼らの神となると約束してくださったことに変わりがないことを示しています。

 バビロン捕囚の時も、ローマに支配されている時も、また、エルサレム崩壊後、世界中に離散している時も、主はイスラエルをご自身の民とし、ご自身が彼らの神となるという約束を永遠に守ってくださいます。そして、その約束は、イエス・キリストの恵みによって、神様の子どもにしていただいたすべての信徒にも同じように与えられます。信仰生涯の中で主から離れて、過ちを犯してしまい、主の懲らしめを受けている時であっても、主の御愛は変わりません。主なる神様に目を向け、悔い改めるなら、主は御力をもって来てくださり罪の縄目から解放し、神様の御愛のうちに住まわせてくださいます。また、驚くべきことに、罪から解放するための報い、贖いの代償も主ご自身が備えてくださいます。イエス様の十字架の血潮こそ、私たちの報いです。そして、贖われた後も新しい働きを備え豊かな報酬も与えてくださいます。

 罪を犯してしまった人間は、正しいさばきをくだされる神様を恐れますが、主はご自身が羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導くと、約束してくださっています。確かに、この約束をイエス様は成就してくださいました。イエス様は、「わたしは良い羊飼いです」とおっしゃいました。そして、イスラエルの民でけでなく、異邦人をも導かなければならないとおっしゃって、弱った民をいやし、罪人を立ち返らせ、命と祝福の道にすべての人々を導いてくださいました。

8節 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

 私たちは、何を一番大切にしているでしょうか。健康、財産、名誉、人それぞれ一番に考えていることは違うと思います。また、そのため、人生の基準を何に置いているでしょうか。ある人は、両親の教え、またある人は有名な人や恩師の言葉、中には自分以外は信じないという人もいるかもしれません。しかし、すべての人は草、その栄光は、みな野の花のように、やがて枯れてしまいます。そのような移ろいやすいものを人生の基準にすると、安心して生きることなどできません。しかし、永遠に立つ神様のみことば、どんなときでも私たちを幸いに導く創り主のみことばを基準とするなら、人生の岐路に立った時にも、安心して正しい選択をすることができます。

 もしも、神様のみことばから離れて苦しみの中にあるという人がいらっしゃるなら、あなたを「愛する子」と呼んでくださる父なる神様に目を向けて、自分の犯してきた罪を隠すことなく素直に言い表して、心から悔い改めて主の御許に立ち返りましょう。私たちの良い羊飼いである主は、私たちの罪をイエス様の血潮のゆえに赦してくださり、優しく祝福の道へと導いてくださいます。