2025年11月2日「捕らえられたイエス様」木下淳夫 師

タイトル捕らえられたイエス様
聖書ヨハネ18:12~14
説教者木下淳夫師

 今日のテーマは、「捕らえられたイエス様」です。

 イエス様は、過越しの食事が終わってから、弟子たちと一緒にゲッセマネの園へ行かれました。そこに、イスカリオテのユダがユダヤ人の役人たちと一隊のローマ兵を引き連れてやって来ました。イエス様は、彼らが自分を捕らえに来たことを悟り、自分から捕らえられるために彼らの前に進み出られました。このイエス様の姿を思い起こし、この後に始まる宗教裁判の闇と、その背後にある神様の御計画を覚えたいと願っています。

ヨハネの福音書18章12~14節

12 そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕らえて縛り、

13 まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。 14 カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である。

(新改訳第三版)

 イエス様は、一隊の兵士と千人隊長、ユダヤ人の役人たちに捕らえられました。先週、一隊の兵士が通常600人、少なくとも400人の編成であったと申し上げましたが、千人隊長が同行していることから、その規模の大きさがわかるかと思います。これだけの兵を動かすのですから、もしもイエス様が過越しの祭りで群衆を扇動して暴動が起こったら、どれだけ大きな影響が出るのか、イスカリオテのユダもピラトもよくわかっていたのだと想像できます。ですから、すでに暴動の準備がされていると想定して、これほど多くの兵士が送られたのだと考えられます。ところが、兵士たちが見たのは、何も武装していないイエス様ご自身と、弟子たちだけでした。

 彼らは、何の抵抗もしないイエス様を捕らえて、縛ったうえで宗教裁判にかけるために大祭司のところへ連れて行きました。通常なら、夜明け前に裁判を行うことはありません。しかし、彼らは何としてもイエス様を過越しの祭りが始まるまでに処刑したかったので、夜の間に裁判を開始しました。

最初にイエス様を取り調べたのがアンナスでした。彼は、その年の大祭司カヤパのしゅうとでした。旧約聖書をよくご存じの方なら、大祭司はアロンの家系の人であり、その人が生きている間は大祭司の職に就いていることをご存じだと思います。そうすると、この時代の大祭司が、律法で定められた方法で選ばれていないことがわかります。実は、ローマの支配下にあったこの当時、ローマは大祭司が大きな権力を持つことを恐れて、ローマが大祭司を任命していました。この時、カヤパが大祭司だったのですが、その前の大祭司がアンナスでした。ですから、アンナスはこの時も依然として民衆やサンヘドリン議会に影響力を持っていました。そのため、イエス様が捕らえられた時も、最初にアンナスの所に連れて来られました。

 カヤパについて、ヨハネはラザロがよみがえったことを知らされた時に、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策であると助言した人物であると注釈しています。この言葉からもわかるように、ユダヤ人たちは形式的には裁判をしますが、初めからイエス様を殺そうとしていたことがわかります。

ペテロの手紙第一2章22~24節

22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

(新改訳第三版)

 イエス様は、捕らえられ縛られて裁判にかけられたのですが、捕らえられるような罪を犯したことなどありません。しかし、当時のユダヤ人の指導者たち、また、ローマ人たちは、死刑を前提とした裁判を行うために、罪のないイエス様を捕らえて縛り連行しました。それなのに、イエス様は抵抗しませんでした。その姿勢は、この後の裁判でも十字架上でも全く変わりません。

そのように、ご自分から苦しみの道を選んでくださったのは、すべての人の罪をその身に負うためです。ご自分が私たちの罪を背負うことによって、私たちが罪を離れて、義のために生きるためです。ですから、イエス様を信じて従う人は、イエス様の打ち傷のゆえに癒されます。

ペテロの手紙第一2章24節

キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

(新改訳第三版)

 イエス様は、このような不当な扱いを受けても、黙って苦しみを耐え忍び、十字架でいのちを捨ててくださいました。私たちは、このイエス様の打ち傷によっていやされたことを感謝しましょう。そして、救いの恵みに与った私たちがいただいている約束を再確認して、主が再び来られる時を待ち望んでまいりましょう。