
| タイトル | さげすまれた救い主 |
| 聖書 | イザヤ53:1~6 |
| 説教者 | 木下淳夫師 |
今日のテーマは、「さげすまれた救い主」です。
イスラエル王国は、ダビデ王、ソロモン王の時代に繁栄しました。しかし、ソロモン王の末期から、王国は衰退をはじめ、ソロモン王の死後、紀元前922年に王国は南北に分裂しました。その後、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南ユダ王国も滅亡の危機に直面することになりました。そのころにイザヤは預言者として召命を受けました。
主がイザヤを召されたのは、イスラエルの民が主の御心から離れて堕落していくことを警告し、堕落した結果さばきが下ることを伝えるためでした。それと同時に、主はご自身の民を見捨てることはないという、回復のメッセージも伝えてくださいました。
このように、イスラエルの堕落、そして回復を通して、主はイザヤがいた当時のイスラエルの民だけでなく、その後にバビロン捕囚という絶望を経験する人々、また、その後の人たち、さらに、イエス・キリストの恵みに与り、神様の愛を知ることになるすべての人々に、罪の恐ろしさと神様の永遠に変わることがないご愛を教えてくれています。
今日お読みする53章では、約束されたメシアが現れたにもかかわらず、だれも気が付かず、救い主を拒絶してしまう様子が記されています。この苦しみを受ける救い主と、それに対する人々の反応から、私たちもイエス様に対してどのような目を向けていたのか顧みたいと願っています。
イザヤ書 53章1~3節
1 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。
【主】の御腕はだれに現れたか。
2 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。
砂漠の地から出た根のように。
彼には見るべき姿も輝きもなく、
私たちが慕うような見栄えもない。
3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で、病を知っていた。
人が顔を背けるほど蔑まれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
(新改訳2017)
イザヤは、自分を含めたイスラエルの民が、救い主が現れたのに誰も気が付かず、また、その方が約束されたキリストだと信じないという事が起こることを、主から示されました。この預言はイエス様が人となってこの世に来られ、十字架の苦しみをお受けになったことによって成就しました。なぜ誰もイエス様が救い主だと気が付かなかったのかというと、イエス様には見るべき姿も輝きもなかったからです。人々は来るべき約束のキリストを、「ダビデの子」と呼んでいました。このことからわかるように、人々が持っていた救い主のイメージはダビデのような王様でした。ですから、自分たちのイメージと異なる姿で現れたイエス様を救い主であると認めることができず、人々はイエス様をさげすみ、のけ者にしました。
イザヤ書 53章4~6節
4 まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
しかし、【主】は私たちすべての者の咎を
彼に負わせた。
(新改訳2017)
イエス様は、すべての人を愛し、貧しい人々に寄り添い、病人をいやし、慰めと希望を与えてくださいました。しかし、当時の権力者からは、厳しい迫害を受け、最後は十字架につけられるという、苦しみと悲しみの生涯を歩まれました。当時の人たちは、十字架につけられたイエス様を見て、この人は神様に呪われた人だと考えました。それは、申命記21章23節に「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。」と記されているからです。だから、イスラエルの人々は、イエス様が神様に呪われるような罪を犯したので、ローマによって鞭打たれ、苦しめられ、十字架につけられたのだと考えました。
しかし、イザヤは与えられた啓示によって、真実は異なっていることを知りました。イエス様が十字架につけられたのは、私たちすべての人の罪のためであるということを、イザヤは主から示されました。イエス様が苦しみを受けることは、羊のようにさまよい、自分勝手な道を歩んでいた私たちを救い、癒し、平安を与えるための、神様のご計画であるとイザヤは啓示を受けました。
イザヤ書 53章4節
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
(新改訳2017)
当時のイスラエルの民だけでなく、現代においても世界中の多くの人がイエス様を誤解し、さげすみ、のけ者にしています。もしかしたら、イエス様を救い主と信じた人たちであっても、罪の誘惑に遭った時、イエス様をのけ者にして自分勝手な道に向かってしまうかもしれません。もしも、自分勝手な道を歩んだのなら、イスラエルの民が経験した苦しみと絶望が待っています。
だからこそ、私たちはイエス様から目を離してはいけません。神様のご計画により、私たちの罪はすべてイエス様が担い、イエス様がすべての罪の罰を受けてくださいました。その愛とあわれみのゆえに、私たちは罪が赦されました。そして、恵みにより、信仰によって永遠のいのちをいただき、神様の子どもとされました。この真理を忘れず、イエス様と共に歩んでまいりましょう。
また、この世では、多くの人が苦しみ受けています。それらの人たちに対しても、彼らが罪を犯したから罰せられていると思い込むことがないように注意しましょう。私たちがするべきことは、苦しんでいる人をさばくことではありません。イエス様がなさったように、苦しんでいる人に寄り添いあわれむことです。そして、その人の病や痛みを担ってくださったイエス様を指し示すことです。神様はすべての人が救われて真理を知ることを願っておられます。私たちも真理であるイエス様を知った者として、いつも神様のご愛のうちにとどまり、救いの福音を宣べ伝えてまいりましょう。