
タイトル | 誰に認められたいですか? |
聖書 | ヨハネ12:36~43 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日のテーマは、「誰に認められたいですか?」です。
誰でも、誰かに褒められたい、認められたいという気持ちがあると思います。人生において、誰かに認めてもらうことは、励みにもなりますし、その結果として自分の成長にもつながります。しかし、神様からの栄誉を第一とすることは、私たちの永遠にかかわる重大な選択となりますので、神様に認めていただくことを忘れてはいけません。
今日は、聖書を通して、永遠のいのちにかかわる正しい選択をすることの大切さを学び、みんなでいのちの道を歩んでいきたいと願っています。
ヨハネの福音書12章36~41節
36 イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。
37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。
38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」
41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
(新改訳第三版)
イエス様は、ユダヤ人の指導者たちの前から身を隠されました。イエス様が身を隠されたことにより、彼らが自分の罪を悔い改めて、イエス様に従う機会はなくなってしまいました。つまり、救いの機会を失ってしまったということ、さばきを受けることが定められたということです。イエス様は、たくさんのしるしを行われ、彼らはそれを見聞きしていました。それでも、彼らはイエス様が父なる神様から遣わされたキリストであることを信じませんでした。
ヨハネは、ユダヤ人の指導者たちが、かたくなにキリストの福音を拒否してしまったのは、預言者イザヤによって語られたみことばの成就であると説明しています。パリサイ人、律法学者たちは、神様のみことばを学び、イスラエルの民を導く働きを担っていました。しかし、彼らは、律法を民に教えることをしませんでした。律法を自分の都合の良いように解釈し、自分では律法を守らず、民にはきびしい戒めを与えていました。このような指導者たちに対して、神様は彼らがいやされることがないように、彼らの霊の目を閉ざし、心をかたくなにされました。
素直な心で律法を読むなら、律法を通して自分の罪深さを示され、神様の御前にへりくだり、悔い改めるようになります。しかし、傲慢な心で律法を読んだのなら、自分の罪を悔い改めるどころか、さらに神様に対して反抗してしまいます。そのような、心の高ぶったものを神様はさばき、へりくだる者に恵みを与えてくださいます。
この時のユダヤ人の指導者たちは、律法を知っていただけでなく、イエス様がなさったたくさんのしるしも見てきたにもかかわらず、自分の罪を悔い改めることなく、イエス様を拒否し、さばきを受ける者に定められることになりました。
ヨハネの福音書12章42~43節
42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。
(新改訳第三版)
ヨハネは、ユダヤ人の指導者たちが、イエス様を拒否したことを記していますが、それでも多くの指導者たちがイエス様を信じたという事実を記しています。ただ、残念なことに、イエス様を信じた人たちも、表立って信仰を告白することはしませんでした。なぜなら、当時、イエス様をキリストと信じる者は会堂を追放すると定められていたからです。それでも、イエス様に目を開いてもらった生まれつき盲目だった人は、信仰を告白したのですが、指導者たちは、自分たちの今の地位を失うことを恐れて、信仰告白することはしませんでした。彼らは神様からの栄誉、つまり、神様の子どもにされるという特権よりも、人の栄誉を第一にしてしまいました。
ヨハネの福音書12章43節
彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。
(新改訳第三版)
みなさんは、誰からの栄誉を愛しているでしょうか?誰から認められたいと思っているでしょうか?もちろん、親や先生、友人、そのほかたくさんの人に認めてもらえることはうれしいことです。しかし、認めてもらうことが目的にならないよう注意しなければなりません。人の栄誉を愛することによって、神様からの栄誉を求めなくなるからです。
人からの栄誉は、目で見ることができます。また、耳で聞くことができます。時には賞状や、賞金という形で残るかもしれません。それらは、目標にすることで、自分自身の励みになり、成長のきっかけになります。しかし、それらの栄誉は永遠に残るものではありません。ですから、人からの栄誉を人生の最終目標にすると、最後に目標を失い失望してしまいます。
それに対して、神様からの栄誉は、永遠に残ります。罪人であった私たちが神様の子どもとされる特権を与えられるという栄誉は、永遠に変わることがありません。神様の恵みによって、私たちの内なる人は日々新しくされ、キリストの似姿へと変えられること、また、終わりの日には栄光の体に変えられるという栄誉は、この世の何ものにも代えることはできません。 みことばを通して、イエス・キリストの恵みを知り、また、祈りを通して、イエス様との交わりを深めることで、神様からの栄誉がどれほど素晴らしいものであるのかを知ってください。そうすれば、私たちが受けている恵みがどれほど素晴らしいものであるのかを理解し、神様への感謝がさらに増し加えられることでしょう。そして、人からの栄誉を求めるのではなく、神様からの栄誉を愛する者になっていただきたいと願います。