
タイトル | 死の先にあるもの |
聖書 | ヨハネ11:11~16 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日のテーマは、「死の先にあるもの」です。
先週は、私たちの人生に起こる苦しみの先に、神様はご自身の栄光を現わしてくださるという希望を学びました。今週は、もっとも深い悲しみである死の先にある希望を、イエス様のみことばを通して学ばせていただきたいと願っています。
ヨハネの福音書11章11~13節
11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
(新改訳第三版)
この箇所をイエス様が語られたことと、弟子たちが考えていたことを整理しながら見て行きましょう。
イエス様は、ラザロがこの病が原因で命を落とすこともご存じでした。しかし、イエス様は、ラザロの病気は死で終わるものではなく、神様の栄光が現わされるためのものであることをご存じでした。そして、イエス様は、その場所に二日とどまった後に、ラザロのもとに行こうとおっしゃったのですが、イエス様はラザロがすでに死んでしまったことを知っておられました。それでも、イエス様は、死んでいるラザロのことを「眠っている」とおっしゃいました。そして、イエス様は、彼を「眠りから覚ましに行く」とおっしゃいました。
この言葉からわかるように、イエス様にとって、ラザロの死はすべての終わりではありません。人間が、眠って、時間が経つと目が覚めるように、死んでいる状態であっても、やがてよみがえります。いのちの源であるイエス様は、神様が定められたときに、その死人をよみがえらせてくださいます。
それに対して弟子たちの考え方を見てみましょう。弟子たちは、イエス様がおっしゃったことを文字通りに受け取りました。ラザロが病で死にそうだという知らせを受けてから二日経っていましたが、ラザロは眠っているのなら、まだ彼を救うことができると判断しました。
ヨハネの福音書11章14~16節
14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
(新改訳第三版)
イエス様のみことばを悟ることができなかった弟子たちに、イエス様は、「ラザロは死んだのだ」とおっしゃいました。さらに、イエス様は、すぐにラザロのもとに行かなかった理由を弟子たちに説明されました。その理由は、弟子たちが、イエス様を信じるようになるためです。ラザロの復活を通して、死者の復活はあるということを体験し、イエス様は死に勝利されるお方であり、この後、イエス様が十字架で命を捨てられても、墓からよみがえられることを信じて信仰を持ち続けることができるようになるためです。
それに対する、弟子たちの反応です。ここではトマスの応答が記されています。トマスは、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」と、他の弟子たちに語っています。この言葉から、トマスはユダヤへ行くことが命の危険を伴うことであると認識していたことがわかります。そして、ユダヤ人たちの狙いがイエス様ではありましたが、自分たちにも危険が及ぶ可能性はあるということも覚悟していました。それでも、弟子としてイエス様に従い続けようという決意を示しています。ただ、トマスはイエス様が、よみがえりであり、いのちであることを、まったく想像もできませんでした。ただ、死に対する恐れを強く感じていたのでしょう。だからこそ、死を恐れずにイエス様に従おうと、言葉にしたのだと考えられます。
ヨハネの福音書11章11節
「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
(新改訳第三版)
イエス様が語られたみことばから、死の先にあるものは復活であることがわかります。眠っている人が目を覚ますように、死んだ人も神様が定められた時が来ればよみがえります。また、イエス様は人々を死からよみがえらせることができるお方であることを忘れてはいけません。
死者の復活は、信仰がない人にとっては考えられない話です。もちろん、イエス様の弟子たちですら、初めは信じられませんでした。しかし、イエス様はラザロがよみがえる様子を弟子たちが自分の目で見て復活を信じることができるように、あえてラザロの死という悲しみを受け入れてくださいました。それは、地上での悲しみを解決するよりも、信仰により永遠のいのちを持つことが大切だということを、弟子たちが知るためでした。なぜなら、永遠のいのちをいただいたなら、イエス様の復活に与り、私たちも復活させていただくことができるからです。イエス様を信じる者にとって、死の先にあるものは、復活です。ですから、先に召された兄弟姉妹との再会を待ち望み、残された地上の生涯を、希望と信仰をかたく持って歩んでいきたいと願います。