タイトル | 生ける水の川が流れ出る |
聖書 | ヨハネ7:37~44 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日は、「生ける水の川が流れ出る」というテーマです。
また、今日覚えていただきたいみことばは、この教会が所属する「活水の群」の名前の由来となっている聖書個所でもあります。そこで、私たちが「活水の群」の教会に導かれたということを覚え、一人ひとりに与えられた神様の恵みと約束をしっかりと握って歩みたいと願っています。
ヨハネの福音書7章37~39節
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
(新改訳第三版)
仮庵の祭りは、安息日から始まり、七日間祭りが続きます。そして、その翌日の安息日を「ホシャナ・ラバー」「大いなるホサナの日」として、祭司たちがラッパを吹き鳴らし、レビ人たちが歌を歌い、民は棕櫚の枝を振り動かして大いなる賛美を唱えました。ですから、実際のところ、仮庵の祭りは八日間続き、祭りの喜びは、最後の安息日で最高潮を迎えます。イエス様が、立って大声で宣言されたのは、仮庵の祭りが最高潮に達した終わりの日です。
この祭りでは祭司が金の水差しをもってシロアムの池に遣わされ、祭壇の下の鉢に汲んできた水を注ぎました。また、祭司は同時にもう一つの水差しからぶどう酒を注ぎました。そこで混ざり合った水とぶどう酒は、特別な管からキデロンの小川に流れ出ていました。ですから、この祭りに来ていた民衆は、喜びの水があふれ流れる様子を喜んでいたのですが、それは神様の恵みによって、生ける水が流れ出るようになることを象徴した儀式でした。イエス様は、この象徴的な儀式が成就されることを宣言されました。
つまり、イエス様を信じるなら、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるということです。イエス様を信じた人は、その人の内から新しく変えられ、聖霊に満たされ、神様の恵みはその人の心の奥底から流れ出るようになることを約束してくださいました。
もちろん、この時にイエス様を信じていた人たちもいました。しかし、彼らはまだ生ける水が川となって流れ出るような恵みは受けていませんでした。ですから、この福音書を書いたヨハネも、この時点ではイエス様が約束してくださった恵みを理解できてはいませんでしたし、体験もしていませんでした。それは、イエス様が十字架にかかって死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえられた後に注がれる恵みだったことを説明しています。
ヨハネの福音書7章40~44節
40 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ」と言い、
41 またある者は、「この方はキリストだ」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
42 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
43 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。
44 その中にはイエスを捕らえたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。
(新改訳第三版)
イエス様の宣言は、まさしくご自身が恵みの源、まことの神様、キリストであるという宣言です。このことばを聞いて、群衆の中には、イエス様をキリストだと認める人、モーセを通して語られた預言者だと言う人たちが現れました。また、逆にイエス様がガリラヤ出身だということから、キリストではないという人たちも現れました。ここで反対したのは、ミカ書の預言を通して、キリストはベツレヘムで生まれると知っていた人たちです。
思い出していただきたいのですが、この仮庵の祭りでは、ユダヤ人の指導者たちがイエス様を殺そうと企んでいたため、公然とイエス様について語る人はいませんでした。それなのに、このような議論が起こり、群衆は分裂し、イエス様を捕らえようとする者もいました。この出来事からわかるように、イエス様の臨在があるなら、一人ひとりに信仰の決断が迫られるので、イエス様を信じる人と、反対する人の間に分裂が起こるということです。
ヨハネの福音書7章37~38節
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(新改訳第三版)
皆さんの中で、この教会が「活水の群」の教会だからと言って、この教会を選んだという人は多くないと思います。しかし、今、皆さんがたくさんの教会がある中で、「活水の群」の教会に招かれているということは、イエス様から、「渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と、招かれたからです。そして、イエス様を信じた皆さんは、聖書が言っている通りに、古い自分はイエス様とともに十字架で死に、今、信仰によってイエス様とともに生きる者にされています。そして、心の奥底から生ける水の川が流れ出るようにしていただいています。 この約束を不信仰によって、また、古い肉の性質によって受け取らず、生ける水の川が流れでることを止めてはいけません。いつもイエス様に信頼し、イエス様とともに歩むなら、愛と喜びに満ちた川の流れは、聖霊様を通して限りなくあふれ出て来ます。この恵みを自分だけでなく、すべての人に与えることができるように、私たちも用いていただきたいと願います。