タイトル | 弱さを誇りとする |
聖書 | 2コリント11:16~33 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日は、「弱さを誇りとする」というテーマです。
聖書には、この世とまったく異なった価値観があります。今日のテーマもその一つです。この世では、強さを誇りとします。それなのに、パウロが弱さを誇りとしたのはなぜでしょうか?ご一緒にみことばを学び、私たちも本当に誇りとすべきものは何かを覚えたいと願っています。
コリント人への手紙第二 11章16〜28節
16 くり返して言いますが、だれも、私を愚かと思ってはなりません。しかし、もしそう思うなら、私を愚か者扱いにしなさい。私も少し誇ってみせます。
17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。
18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
19 あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。
20 事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。
21 言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、──私は愚かになって言いますが──私もあえて誇りましょう。
22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
(新改訳第三版)
教会は、イエス・キリストの恵みによって救われた人たちが集まっているところです。そこでは、だれもが神様の前で等しく愛されている神様の子どもです。ところが、コリントでは、自分を誇り高ぶる人たちによって、信徒は分裂していました。そして、教会の指導者になろうとしていた人たちの中には、パウロが使徒であることを認めず、自分はパウロよりも優れていると自慢する人もいました。真理を知った信徒なら、そのような人を受け入れないはずですが、コリントの人たちは、彼らを受け入れ、従っていました。ですから、パウロは不本意ながら、自分が本当の使徒であるということを、自分の生まれや、使徒としてのこれまでの奉仕、また、どれほどの苦難を経験し、福音を語ってきたのかを語りました。パウロが、信じられないような苦労をしても、福音を宣べ伝え続けたのは、イエス・キリストの恵みを知らず、罪の奴隷となり、希望を失っている人たちに、福音を宣べ伝えるためです。もちろん、福音を宣べ伝えたコリントの人たちのことも、パウロは愛しています。だからこそ、命がけで旅をしてきました。
コリント人への手紙第二 11章29〜33節
29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
31 主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。
32 ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの町を監視しました。
33 そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。
(新改訳第三版)
パウロは、多くの困難を乗り越えて伝道旅行を続けました。コリントでは、誰にも重荷を負わせないように自分で働きながら伝道し、救われた人々にみことばを教え、キリストのしもべとして奉仕し続けました。それほど、パウロはコリントの人たちを愛していました。それなのに、パウロがいない間に入り込んだ偽使徒によって、兄弟姉妹が惑わされ、真理の道を外れそうになっていることを聞いて、パウロの心は激しく痛みました。だからこそ、人に愚か者と思われても、自分がヘブル人であること、神様が契約を結んでくださったイスラエルの民であること、そして、神の国が約束されたアブラハムの子孫であることを、はっきりと示しました。
ヘブル人と異邦人の間には、隔ての壁がありました。ヘブル人は、自分たちが選民イスラエルであること、約束の民であることを誇りました。そして、神様の約束を受けていない異邦人たちを受け入れていませんでした。また、そのようなヘブル人に対して、すべての異邦人が好意的であったとは考えられません。ところが、そのような敵意を持っていたヘブル人と異邦人を、イエス・キリストは一つにしてくださいました。それなのに、偽使徒と呼ばれる人たちは、自分たちは神様の約束をよく知っていると自慢し、神様の御前に等しいはずの兄弟姉妹を従わせようとしました。
ですから、パウロは、なんとかして、道に迷っている兄弟姉妹を連れ戻そうと、心を燃やしていました。パウロは、「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(30節)と言いました。パウロは、コリントに行ったとき、苦労の連続で肉体的にも弱っていました。また、罪の中に死んでいる人々をあわれむあまり、彼らに対しての態度は、決してきびしいもの、強いものではありませんでした。しかし、パウロはそのような弱さを誇りとしました。彼らを愛するために苦労して弱り果てたこと、また、彼らを愛しているからこそ、強い態度をとることをしなかったこと、すべてキリストの愛があふれているからこそ、パウロは人の目からは弱いと見えました。しかし、その弱さは、キリストの愛のしるしです。だからこそパウロは、自分の弱さを誇りました。キリストが十字架でいのちを捨てるほどに、コリントの人たちのことも愛してくださったことを誇りとしました。
コリント人への手紙第二 11章30節
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
(新改訳第三版)
パウロが自分の弱さを誇りとしたこと、それはキリストの愛があふれているからです。イエス様も、ご自分を低くし、十字架でいのちまでも捨ててくださいました。それほどまでにしてくださったのは、罪の中に死んでいる私たちを愛してくださっているからです。私たちを滅びから救うためです。パウロが示したキリストの愛を、私たちも多くの人たちの宣教のわざを通して受け取りました。私たちが、今、神様の子どもとして、礼拝を捧げることができるのは、そのような神様の愛、また、キリストのしもべたちの愛があるからです。この大きな愛を忘れることなく、真理の道を歩みましょう。そして、私たちもパウロのように、キリストの愛を誇りとし、たとえ人の目からは愚かに見えたとしても、自分の弱さ、つまりキリストの愛を誇りとしていきたいと願います。