
タイトル | 良い悲しみ、悪い悲しみ |
聖書 | 2コリント7:5~10 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日は、「良い悲しみ、悪い悲しみ」というテーマです。
今日は、「良い悲しみ、悪い悲しみ」というテーマです。
私たちは、できることなら悲しみたくありません。しかし、ときには悲しみを経験することによって、人生が良い方向に変わることもあります。今日は、私たちがより良い人生を歩むことができるように、絶望しそうになったときこそ、悪い悲しみを離れて、良い悲しみを経験したいと願っています。
コリント人への手紙第二7章5〜7節
5 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。
6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。
7 ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。
(新改訳第三版)
パウロは、第二次伝道旅行で1年半の間コリントに留まりました。その後、第三次伝道旅行で、パウロはエペソにやってきたのですが、そこにコリント教会から来た使いから、教会に問題が起こっていることを知り、第一の手紙を書き送りました。それでも、パウロは問題を起こした信徒が悔い改めたかどうか心配で、テトスに会うために、トロアスに行ったのですが、会うことができず、マケドニアに渡り、そこでテトスに会うことができ、コリントの様子を聞くことができました。
その時の、パウロは少しの安らぎもありませんでした。パウロの伝道により多くの異邦人が福音を聞いて救いに与かり、神様をほめたたえるようになりました。しかし、そのような異邦人の姿を見て、自分たちだけが神の民であると考えていたユダヤ人たちは不満を抱きました。そして、そのようなユダヤ人たちは、律法による救いではなく、キリストの恵みと信仰による救いを宣べ伝えるパウロを認めないで、迫害しました。また、異邦人たちも、それぞれ自分たちの神々を礼拝し、その土地の権力者は、市民が神々を礼拝することを通して利益を得ていたために、商売の邪魔をするパウロを迫害しました。さらに、救いを受けた教会に、間違った教えが入り込み、信仰の戦いが起こり、コリントの信徒が罪を犯しているという知らせを聞いて、パウロは恐れを抱きました。
それでも、パウロは、神様が遣わしてくださったテトスに会うことができ、慰めを受けました。それだけでなく、テトスがコリントの信徒から慰めを受けたことを知らされ、コリントの信徒が、キリストの愛に根ざして信仰生活をしていること、また、パウロの教えをしっかりと聞いて、罪を嘆き悲しんでいることを知って、パウロは喜びました。
コリント人への手紙第二7章8〜10節
8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、
9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
(新改訳第三版)
パウロが心配していたのは、第一の手紙によって罪を犯した信徒が悔い改めたのかということです。罪を指摘されることは、誰にとってもつらく悲しいことです。もちろん、罪を指摘するパウロも辛いことでした。しかし、パウロはその手紙を通して、彼らが罪を犯してきたことを認めて悲しみ、悔い改めたという知らせをテトスから聞いて喜びました。彼らが悔い改めたことによって、パウロがコリントに行く時、さばきをすることなく、みんなと愛の交わりをすることができることを、パウロは喜びました。
本当なら、人を悲しませるような厳しいことは、誰も言いたくありません。しかし、罪を犯していることに気づいているのに、戒めないでいると、その人は神様の御心を離れ、やがて神様からのさばきを受けることになります。そのような事態になる前に、兄弟姉妹から罪を指摘され、罪を犯したことを嘆き悲しむなら、その時は辛いことかもしれませんが、その後、救いに至る悔い改めを生じます。そして、神様から罪の赦しをいただき、いのちと祝福の道に立ち返ることができます。
この世は、私たちを悲しませます。この世の権威を持つ悪魔は、私たちの失敗を責め、無力さを嘆かせ、絶望に追い込みます。その結果、ある人たちは立ち直ることができず、やがて永遠の滅びに至ります。しかし、自分が神様のみもとを離れ、高ぶって自分中心に生きた結果、この世の悲しみに陥ったこと、神様の御心を痛めていたことを認めて、悲しんで罪を悔やみ、イエス様の十字架を仰ぐなら、その人は救いの道に立ち返ることができます。
詩篇139篇23〜24節
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
(新改訳第三版)
私たちは、この世にあってたくさんの悲しみを経験します。ただ、その悲しみの原因が何かを見極めましょう。自分を滅びに至らせるような悲しみを感じているなら、神様の御心から離れていないか、聖霊様に私たちの心を探っていただきましょう。そして、みことばに従って悔い改め、とこしえの道を歩ませていただきましょう。