2022年3月6日「神様を求める熱心」木下淳夫 師

タイトル神様を求める熱心
聖書2コリント7:10~16
説教者木下淳夫師

 今日は、「神様を求める熱心」というテーマです。

 私たちは、好きなことに対しては、いくらでもエネルギーを注ぐことができます。ですが、逆に嫌いなこと、あまり関心のないことをするときは、ついつい余計なことが頭をよぎり、集中できません。

 神様に対する私たちの心は、どれほど熱心になっているでしょうか?神様の御心、神様を礼拝するとき、愛のある行いをしようとするとき、余計な思いが邪魔することはありませんか?今日は、みことばを通して、熱心に神様を求めることの大切さを学ばせていただきたいと願っています。

コリント人への手紙第二7章10〜12節

10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

11 ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。

12 ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは悪を行った人のためでもなく、その被害者のためでもなくて、私たちに対するあなたがたの熱心が、神の御前に明らかにされるためであったのです。

(新改訳第三版)

 コリントの教会は不品行を行う者もあり、大きな混乱がありました。パウロはコリントの信徒が罪を犯していることを指摘して戒めました。その結果、彼らを悲しませることになったのですが、彼らはただ悲しんだだけでなく、心から罪を悔い改めました。パウロは、彼らの悲しみが、神様の御心に添った悲しみであったと教えています。神様は彼らが心から罪を悔やみ、熱心に立ち返るのをご覧になり、二度と同じ過ちを犯すことがないように、救いの道をはっきりと示してくださいました。罪を犯すことは悪いことです。しかし、その罪を悔い改め、愛によって赦された人は、神様を熱心に愛するようになります。

 彼らが悲しんだことが、神様の御心に添ったことだということは、彼らの変化からわかります。熱心に神様を愛し、依り頼むようになったこと。何が正しいことなのかを学んで弁明したこと。罪に対して憤ったこと。神様が罪に対してくだされるさばきを覚えて恐れたこと。熱心に、主イエス・キリストを慕い、また、主のみことばを慕い、主のみことばを教えてくれたパウロを慕うようになったこと。このような変化によって、彼らは罪に対して正しい処罰を断行し、自分たちがすべての点で潔白であることを証明しました。

 普通なら、きびしい戒めは、罪を犯している人に対してだけ与えられるのですが、パウロは教会の兄弟姉妹を戒めました。それは、教会がキリストのからだであり、信徒一人ひとりは、そのからだの部分だからです。からだの一部が痛むと、全身が痛むように、兄弟姉妹の一人が罪を犯すと、教会全体が罪の影響を受けます。そのため、パウロは信徒全員が、心を一つにして問題を解決することにより、一人ひとりが神様に熱心により頼むようになることを願って、手紙を書き送ったと教えています。

コリント人への手紙第二7章13〜16節

13 こういうわけですから、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らぎを与えられたからです。

14 私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。というのは、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスに対して誇ったことも真実となったからです。

15 彼は、あなたがたがみなよく言うことを聞き、恐れおののいて、自分を迎えてくれたことを思い出して、あなたがたへの愛情をますます深めています。

16 私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができるのを喜んでいます。

(新改訳第三版)

 パウロは、コリントの兄弟姉妹が、問題を解決することを通して、神様に熱心により頼むことを願って手紙を書いたのですが、彼らがパウロの願い通り、罪を悔い改め、処罰を断行するか心配でした。もしかしたら、悲しみに沈んでしまうのではないかという不安もありました。しかし、テトスに会うことができ、テトスからコリントの様子を聞き、慰めを受けました。

 コリントの信徒が、悔い改めたという知らせを聞いたことによって慰めを受けただけではありません。パウロは、テトスをコリントに遣わすときに、コリントの兄弟姉妹に関して話をしていました。問題のある教会に弟子を遣わすのですから、彼らの悪いところが伝えられるのが普通だと思いますが、パウロは、コリントの兄弟姉妹が、キリストの愛に満ちた立派な信徒であると誇っていました。テトスが、コリントに着いたとき、コリントの信徒が良く話を聞いてくれたこと、テトスをキリストの弟子として、敬意を持って迎え入れたことを、パウロはテトスの口から聞きました。それによって、コリントの教会には依然として問題は残っているけれども、パウロは彼らに対して全幅の信頼を寄せることができるようになったと喜んでいます。

 今日、私たちが学びたいことは、罪に対して悲しんだなら、信徒には神様に対する熱心が起こるということです。この「熱心」は、「急ぎ」とか、「勤勉」、「真剣」とも訳されます。熱心は、気持ちだけでなく、行動にも現れます。その行動は、速やかに行われ、また、一生懸命、真剣になされます。コリントの兄弟姉妹は、そのような熱心さをもって、神様を愛し、互いに罪を処罰し、愛を持ってテトスを迎えました。

ローマ人への手紙12章11節

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

(新改訳第三版)

 私たちが神様に造られた者であること、また、神様が私たちを滅びから救ってくださったお方であることを知ると、神様を礼拝すること、主に仕えることは、当然のことであると多くの人は理解してくださるでしょう。しかし、どれほど熱心に、どれほど勤勉に主に仕えているかと言われると、返答に困ることがあるのではないでしょうか。悪魔は、私たちと神様の間に、さまざまな隔たりとなる誘惑を投げ込んできます。そのような誘惑が入り込む余地がないように、勤勉に、また霊に燃えて、主に仕えましょう。主に対して熱心に仕えるなら、人に対しても神様の愛を示すことができるようになります。