タイトル | 救いを失うことがあるのか |
聖書 | ペテロの手紙第二 2:17~22 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日は、「救いを失うことがあるのか」というテーマです。
大切なテーマですの、しっかりとみことばを読んでまいりましょう。
ペテロの手紙第二 2章17〜19節
17 この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。
18 彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、
19 その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。
(新改訳第三版)
偽教師たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧と表現されています。信徒たちは、霊的な渇きを癒すためにみことばを求めます。しかし、偽教師から、いのちの水は出てきません。偽教師たちは、信徒が歩む道をくらませ、迷わせる霧のような存在です。しかし、彼らは主の御前には、むなしい者です。主が一度彼らにさばきを下されると、彼らは霧のように吹き払われます。偽教師たちに対して、主は真っ暗なやみ、暗闇のさらに下の暗闇を用意しておられます。そして、この暗闇は、いつも彼らを見張っています。
ペテロは、偽教師たちに対して、主が真っ暗なやみを備えておられると言うのは、彼らの行いが非常に悪いからです。偽教師自身の行いは、誤った生き方です。しかし、彼らは大言壮語を吐いています。自分でわかっていないこと、できもしないことを、大げさに言っています。
パウロもローマ人への手紙6章1節で、「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」と言っていますが、これは、パウロが伝えた「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ5:20)という真理を、ある人たちが曲解したことを示しています。偽教師たちは、さらに恵みを受けるために、「罪を犯せばいい、快楽を楽しめばいい」と教えていたのでしょう。
このように、偽教師たちは、ようやくこの世の罪に汚れた生活を抜け出し、真理であるイエス様を見出し、イエス様に従って、神様に喜ばれる聖い生活をしようとする人たちを、肉欲と好色によって誘惑します。そして、彼らに自由を約束します。もちろん、偽教師たちが、自由を与えること、ましてや永遠のいのちを約束することなどできません。それなのに彼らは、平気でできもしない約束をして、救いを求める人々を惑わします。
偽教師たちは、真理をよく知っているふりをしていますが、実際は何もわかっていない、さらに言うなら、イエス・キリストを知らず、救いを得ていない滅びの奴隷です。それは、彼らの行いが罪に征服され、罪に支配されていることによって証明されてています。
ペテロの手紙第二 2章20~22節
20 主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。
21 義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。
22 彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざどおりです。
(新改訳第三版)
この箇所は、「一度イエス・キリストを信じて世の汚れから逃れたのに、その後、罪に支配されるなら、その人の終わりの状態は、初めの状態よりも悪くなる。だから、イエス・キリストを知らなかった方がよかった。」と、解釈する人がいます。そのように解釈すると、イエス様を信じて救われても、この世の誘惑に負けてしまうと、救いを失い、終わりの状態は救われる前よりも悪くなるということになります。
ヨハネの福音書10章28節
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
(新改訳第三版)
一度救いを受けると、決して滅びることなく、救いを失うことはないと、イエス様が約束してくださっています。
ここで注意していただきたいのは、この偽教師たちは、イエス・キリストを知識として知り、救いの道がキリストであり、キリストのからだである教会に救いがあることを知って、教会に来ましたが、イエス様を信じていなかったということです。繰り返し言いますが、偽教師たちは、「偽」というくらいですから、はじめから救いを受けていません。
知識としてイエス・キリストを知っていることと、イエス・キリストを自分の救い主として信じて従うことはまったく違います。ですから、聖書のテストをして満点を取ったからといって、その人はクリスチャンだと決めることはできません。逆に聖書のことをよくわかっていない人であっても、ただイエス様を救い主と信じて従っているなら、その人は神様の子どもです。だからと言って、いつまでも「聖書のことはむずかしくてわかりません」と言って、幼子のままでいいということではありません。神様はご自身の子どもが、キリストの似姿へと成長することを願っておられるからです。そのために、私たちに聖書を通して神様のみことば、教えが与えられています。そして、真理によって偽りを見抜き、兄弟姉妹を守り導くことができるようになります。
もう一度確認しておきます。救いは神様が与えてくださった救い主イエス・キリストという恵みを、信仰によって受け取ることによって与えられます。そして、一度救いに与った人は救いを失うことはありません。それでも、この世は私たちを惑わし、罪を犯させ、今度は信徒を偽教師として利用し、多くの人を惑わせようとします。ですから、私たちが人々を惑わす者、つまずきにならないように注意しましょう。そのために、真理に固くたち、みことばを学び、成長したキリストの証人として世に出ていきたいと願います。
ペテロは偽教師たちのことを、大胆不敵、尊大な者たち、栄誉ある人たちをそしって恐れるところがない人たちであると言っています。偽教師たちがどれほど大胆不敵な者、尊大な者であるのかということを、ペテロは御使いと比較しています。御使いは、人間よりもはるかに高い能力を持っています。また、戦ったなら人間が叶わないほどの力を持っています。しかし、御使いたちは、主の御前で自分たちの判断で、偽教師たちをさばくようなことはしません。なぜなら、御使いたちは、さばきは主がくだされるのであり、自分たちは主に従う者であることを認識しているからです。
偽教師たちは、救いの恵みには無関心で自分のやりたいことをしています。ペテロは、そのような彼らの愚かさから、「捕らえられ殺されるために自然に生まれついた理性のない動物」と表現しています。実際にはそのような動物はいませんが、彼らの主を恐れず、汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る愚かな振る舞いが、全く理性のない動物のようであり、その結果、彼らは自分の身に滅びを招くのだと教えています。
偽教師たちは、このように自分の愚かさのためにさばきを受けるのですが、ペテロは、彼らの愚かな行いを具体的に記しています。彼らは昼から飲み騒ぎます。偽教師たちが働くことをせず、快楽にふけっている様子がわかります。そのような、彼らの怠惰な生活は、教会の中でも変わりません。自分では教師だと言いながらも、教会の愛餐や、聖餐においても、自分勝手な教えによって、主との交わり、兄弟姉妹との交わりを乱していました。そのような者が、教師であるはずはありません。彼らは教会の中でも、しみや傷のようなものです。ペテロは偽教師たちが求めているものは罪であると言っています。彼らは絶えず罪を犯し続け、自分が罪を犯すだけでなく、心が定まっていない信徒をも惑わして、滅びに招いています。このことから、彼らは兄弟姉妹を祝福るする教師ではなく、呪いの子であるとペテロは言っています。
ペテロは、偽教師たちが民数記に記されているベオルの子バラムと同様に、不義の報酬を愛していることを指摘しました。バラムは、イスラエルに敵対していたバラクに、イスラエルを呪うように雇われました。バラムは、バラクのもとに向かうとき、彼が乗っていたロバが、突然人間の言葉を話して、バラムの目の前に、御使いが立っていることを知らせ、バラムの愚かな行いをやめさせようとしました。それでも、バラムはバラクのところへ行って、呪いのことばを話そうとしましたが、主がイスラエルを守られたので、バラムはイスラエルを呪うことはできませんでした。その後、民数記には、直接記されていませんが、バラムはイスラエルに罠を仕掛けて、彼らが主に対して罪を犯すように仕向けたことが、民数記31章に記されています。バラムは自分が利益を得るために、主を恐れることなく、自分の欲望のまま行動し、人にも罪を犯すことを教えました。
ここでペテロは、偽教師たちの愚かさについて、とても詳しく説明しています。そして、それらの行いは、滅びに至ることを宣言しています。ペテロがここまで、偽教師たちについて詳しく述べているのは、彼らが教会に入り込み、教会を中から腐敗させるからです。今まで、教会は外部からの迫害に耐えてきました。敵が外にいるときは、兄弟姉妹が心を合わせて忍耐し、立ち向かうことができました。しかし、敵が内部に入ったなら、分裂が引き起こされ、互いの交わりが絶たれます。すると、信仰の弱い信徒は真理の道から離れやすくなります。そのように、偽教師たちは、自分の利益のために、巧みに信徒を誘惑します。
偽りの教えが危険なのは、教会の土台であるイエス・キリストから、信徒を離れさせ、この世に従わせるようになるからです。その結果、教会には分裂が起こります。私たちは教会のメンバーというだけでなく、キリストのからだの大切な部分です。そして、互いがそれぞれのものであり、なくてはならない存在です。ですから、私たちは交わりの中で、人を罪に陥れるような偽りを捨て真実を語らなければなりません。また、偽りの教えに惑わされてはいけません。この世には魅力的な教えがたくさんありますが、キリストから離れさせようとする教えは、真理ではありません。あらゆる偽りに惑わされ従うことがないように、互いに真実のみことばを語り、励ましあってまいりましょう。