
| タイトル | イエス様がおられないとき |
| 聖書 | ヨハネ6:15~21 |
| 説教者 | 木下淳夫師 |
今日のテーマは、「イエス様がおられないとき」です。
どんなときでもイエス様から目を離さないことは、とても大切なことです。なぜこれほどイエス様に目を向け、イエス様とともにいることが重要かということを今日の個所から教えられたいと願っています。
ヨハネの福音書6章15~17節
15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。
16 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。
17 そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
(新改訳第三版)
イエス様からパンをいただいた群衆は、イエス様をイスラエルの王にして、むりやりエルサレムに連れて行こうとしていました。過越しの祭りの時には、イスラエルがエジプトから救い出され自由を与えられたことを思い出します。ですから、ローマに支配されていたこの時代、過越しの祭りでは、ローマからの救いを求める声が強くなっていました。そのような民衆の強い思いから、ここに集まっていた人たちは、イエス様をむりやりエルサレムに連れて行って、ローマから解放してもらおうとしました。
マタイの福音書を見ると、イエス様は、弟子たちを強いて船に乗り込ませて、先に向こう岸に行かせてから、群衆を帰してしまわれたと記されています。それから、イエス様は祈るために一人で山に登られました。
イエス様が群衆を帰されたのは、彼らの考えを知っておられたからです。なぜなら、イエス様は武力によってイスラエルに救いをもたらすために来られたのではないからです。また、ご自身が栄光を受ける時、つまり、十字架に架けられるときはまだ来ていなかったからです。
イエス様は、弟子たちが休む間もなく働いたので、彼らが肉体的にも少し休んで、静まって神様との交わりを持つことができるように、彼らを舟に乗り込ませて向こう岸へ行くようにと命じられました。しかし、弟子たちはイエス様の気持ちを分かっていなかったのでしょう。イエス様と離れて舟に乗ったのですが、心までイエス様から離れてしまったようです。
ヨハネの福音書6章17節
17 そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
(新改訳第三版)
時間的にも夕方になってから舟に乗って漕ぎ始めたのですから、あたりは真っ暗です。しかし、それ以上に問題だったのは彼らの霊性まで暗くなっていたことです。そして、イエス様が彼らのもとにおられないだけでなく、彼らの心にもイエス様がいなくなっていたことが一番の問題でした。
ヨハネの福音書6章18~21節
18 湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。
19 こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。
20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。
(新改訳第三版)
真っ暗な湖は、吹きまくる強風で荒れ始めました。これは、目に見える状況として彼らがどれほど苦しみ、恐れたのかが容易に想像できます。しかし、本当の恐ろしさは、イエス様が彼らの心にいなかったことです。彼らがイエス様から目を離していたことです。主イエス様が、心にいないとき、私たちも襲い来る様々な荒波のために、恐れを抱き前に進むことができなくなってしまいます。
弟子たちの中には、この湖で漁をしていた者もいますから、自分たちの経験を生かして何とかこの危機を乗り越えようとしました。少し前に、弟子たちは、自分の力ではどうすることもできないことがあることを思い知らされ、イエス様により頼むならどんなことでも解決することを体験したのですが、この場面でイエス様がそばにおられないことから、イエス様により頼む心まで失っていました。
イエス様は、そのような弟子たちに荒れ狂う湖の上を歩くという奇跡を示して近づいてくださり、ご自身が食べ物だけでなく、すべての自然を支配しておられる神様であることを教えられました。そして、「わたしだ、恐れることはない。」と、彼らに平安を与えてくださいました。
弟子たちも、イエス様を見て喜び、舟に迎えました。そうすると、舟はほどなく目的の地に着きました。
ヨハネの福音書6章21節
それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。
(新改訳第三版)
私たちの人生は、いつも穏やかなわけではありません。時には強風が吹き、荒れ狂う波に翻弄されることもあります。しかし、心まで不安や恐れの波にのまれてしまったのなら、もはやどうすることもできません。弟子たちが、真っ暗な湖でもがき、死の恐怖にさらされていたように、私たちも、人生の荒波にのまれてしまったのなら絶望してしまうでしょう。この絶望の原因は、イエス様がおられないことです。世の光であるイエス様がおられないなら、心まで暗闇となり、目的地を見失い、自分がどこにいるのか、何をしているのかもわからなくなってしまいます。弟子たちは、イエス様を喜んで迎えることで、本来の目的地を見つけ、ほどなく辿り着くことができました。
今日、イエス様から目を離したとき、どれほどの困難な道を歩むことになるのかを覚えましょう。そして、イエス様がおられることの幸いを再確認しましょう。人生において困難な時を歩んでいても、イエス様はその嵐の海を歩いて近づいてくださり、「わたしだ。恐れることはない。」とみことばをくださいます。いつもイエス様を心の真ん中にいていただき、私たちに備えられた天の御国という目標を見失うことなく平安をもって歩ませていただきましょう。