2025年8月3日「いのちを捨てた愛」木下淳夫 師

タイトルいのちを捨てた愛
聖書ヨハネ15:13~15
説教者木下淳夫師

 今日のテーマは、「いのちを捨てた愛」です。

 皆さんは、一度も会ったこともない人が、自分を愛していると言っても、信じることができないのではないでしょうか?しかし、確実な証拠があるのなら、私たちもその人の愛を受け取ることができると思います。イエス様は、私たちを愛しておられます。そして、その愛を十字架という証拠によって、私たちに示しておられます。

 今日は、十字架に示されたイエス様の愛を受け取り、一人ひとりがイエス様との関係を深めたいと願っています。

ヨハネの福音書15章13~15節

13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。

15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

(新改訳第三版)

 人が誰かを愛するというとき、言葉だけでなく行動が伴うことで、相手はその愛をより深く信じることができます。その行動が、自分中心ではなく、自分よりも相手を大切にすることだったら、人は愛されていると感じるのではないでしょうか。イエス様は、もっとも大きな愛は、人がその友のためにいのちを捨てることだとおっしゃいました。そして、イエス様は弟子たちを友と呼んでくださいます。つまり、イエス様は弟子たちのためにいのちを捨てるほどに、彼らを愛しておられるとおっしゃいました。

 ここで友ということについて、考えてみましょう。友とというのは、お互いが対等な関係です。しかし、イエス様と弟子たちは、人間的には先生と弟子という関係であり、また霊的には神様と人間というまったく違った立場です。それはイエス様だけでなく、弟子たちもよく認識している事実です。それなのに、イエス様は弟子たちを対等な関係であると言ってくださいます。

 弟子たちは、イエス様を通して神様のみことばを聞きました。彼らは、そのみことばによって、神様が何を願っておられ、また何をなそうとしておられるのかを知ったので、彼らは神様のしもべではなく、神様の子どもであると、イエス様はおっしゃってくださいました。もちろん、ただみことばを聞いただけで、それを守らないのなら、神様の子ども、神様と同じ性質をいただいたものと言えるはずがありません。ですから、イエス様は、弟子たちがイエス様の命じることを行うなら、彼らはイエス様の友であるとおっしゃいました。

 イエス様は、ご自身を通して神様の御心を知り、その戒めを守る人たちを、しもべとは呼ばず、友と呼んでくださいます。そして、イエス様は、その友のためにいのちを捨ててくださいます。

ヨハネの福音書15章13節

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

(新改訳第三版)

 私たちは、神様の御心を知らずに、神様に背を向けて自分勝手に生活してきました。そのまま罪を犯していたなら、神様の御怒りを受けて滅びなければならないことも知らずに、暗闇の道を歩き続けていました。

しかし、イエス様はそのような私たちを滅びから救うために、この世に来てくださいました。それは、イエス様を救い主と信じる人たちを、神様の家族として、また、友として、ご自身の愛の中に住まわせるためです。そして、十字架でいのちを捨てることで、ご自身の愛をはっきりと示してくださいました。

教会に十字架が掲げられているのは、イエス様が私たちを愛しておられることを、すべての人に示すためです。イエス様は、体は鞭で打たれてボロボロにされ、手足に釘を打ち付けられて呼吸をすることができず、また、裸の恥を人に晒して、長い時間苦しみを受ける十字架にかかってくださいました。また、霊において、私たちの代わりに、神様に呪われた者になって、罪に対する御怒りを一人で受ける十字架でいのちを捨ててくださいました。それほどの苦しみを受けてまで、イエス様は私たちを愛してくださいました。そして、今、死からよみがえられたイエス様は、私たちに十字架の愛を示して、私たちを友と呼んでくださり、救いの御手を差し伸べてくださっています。このイエス様を愛を受け取って、私たちを友と呼んでくださるイエス様と一緒に人生を歩んでまいりましょう。