
タイトル | 汚れを洗ってくださった主 |
聖書 | ヨハネ13:1~11 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日のテーマは、「汚れを洗ってくださった主」です。
イエス様が弟子たちの足を洗ってくださった出来事を通して、私たちもイエス様に愛され、そして、イエス様の十字架の血潮によって洗いきよめられたことを覚えて、日々、罪を洗いきよめていただいて歩んでいきたいと願っています。
ヨハネの福音書13章1~5節
1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
(新改訳第三版)
イエス様は、過越しの食事をしている途中で、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、弟子たちの足を洗ってくださいました。イエス様が弟子たちの足を洗ってくださったのは、イエス様が弟子たちを愛しておられることを示すためでした。過越しの食事が始まってすぐに、イエス様が行動によってご自身の愛をお示しになったのは、この地上でイエス様に残された時間が、あとわずかになったからです。そして、悪魔がイスカリオテ・ユダの心に、イエス様を裏切る思いを入れていたからです。ですから、イエス様はユダに対しても、悪魔の誘惑に打ち勝って、改心してほしいという願いから、弟子たちの足を洗うという、本当なら一番身分が低いしもべがする行動をとられました。
ヨハネの福音書13章6~11節
6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
(新改訳第三版)
弟子たちの足を洗うイエス様と、ペテロの会話が記されています。まず、ペテロは、先生であるイエス様が弟子の足を洗うことが理解できませんでした。しかし、イエス様は「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と、答えられました。
この時の弟子たちは、過越しの祭りでイエス様が王になってローマからイスラエルの民を救うことを期待していました。そして、イエス様に従ってきた自分たちが高い地位に着くことを楽しみにしていました。ところが、イエス様は、先生であるにもかかわらず、しもべの姿をとられました。つまり、イエス様は、ペテロも教会のリーダーになった時、イエス様がなさったように、仕える者になることを、行動を通して教えておられたということです。
ペテロは、誰よりもイエス様に仕えていると思っていました。ですから、先生に足を洗ってもらうわけにはいかないと考えて、足を洗ってもらうことを断りました。しかし、イエス様は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と、おっしゃって、足を洗うという行為が、目で見える行い以上に、霊的に重要な意味を持っていることを示そうとされました。
ところが、ペテロには、イエス様が伝えようとされた霊的な重要性に気付くことはなく、イエス様に洗っていただくことが、イエス様との関係をより深めると考えたのか、「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と、イエス様にお願いをしています。それに対して、イエス様は、水浴した人が全身きれいになっていて、外を歩いたときに汚れる足だけをきれいにすれば十分であるという、日常の出来事をとおして、霊的な真理を教えられます。ただ、この弟子たちの中で、ユダがイエス様を裏切ろうとしていることを、イエス様はご存じでしたので、「みながきよいのではない」と言われました。
10「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。」
ヨハネの福音書13章410節
水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。
(新改訳第三版)
イエス様がおっしゃったこのみことばは、常識的なことです。しかし、その背後には霊的な意味があります。イエス様を信じてきよめられた人は、もうすでに罪が洗われているのだから、普段の生活で犯してしまう小さなあやまちを悔い改めてきよめていただくだけで充分であるということです。
私たちは、普段の生活の中で、何度も過ちを犯してしまいます。神様に対して罪を犯すこともあります。しかし、イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったことにより、私たちの罪、汚れはきよめられました。ですから、私たちはイエス様を救い主と信じる信仰によってきよめられたことを忘れてはいけません。
ただ、水浴した人であっても、外を歩くと足は汚れます。そのように、この世の生涯を歩む中で、私たちは罪を犯してしまうことがあります。そのような汚れを日々洗いきよめることも忘れてはいけません。もちろん、そのようなすべての罪、咎、汚れも、心から悔い改めることで、私たちの主イエス・キリストは、十字架の血潮によって私たちをきよめ、罪を取り去ってくださいます。
今日、私たちは、イエス様によって愛され、すべての汚れをイエス様の血潮によって洗いきよめられたものであることを再確認しましょう。そして、神様の子どもとして、イエス様と一緒に聖徒としての歩みを続けてまいりましょう。