タイトル | 人間に必要な安息 |
聖書 | ヨハネ5:1〜18 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日のテーマは「人間に必要な安息」です。
私たちは、休む間もなく忙しく働き続けると体が疲れるだけでなく、心も疲れてきます。私たちが、いつも元気に生きるためには、安息が必要です。それは、神様がそのようにお造りくださったからです。六日働いて一日休むというサイクルを、神様ご自身が天地創造の時に示してくださり、私たちにも安息を与えてくださいました。今日は、私たちに必要な安息を、主イエス様が与えてくださることを覚えて、いつも新しい力に満たされて歩みたいと願っています。
ヨハネの福音書5章1〜9節
1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。
5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
ところが、その日は安息日であった。
(新改訳第三版)
ベテスダの池には、主の使いがやって来て池の水を動かし、水が動いた時に最初に池に入った人はどんな病も癒されるという言い伝えがありました。ですから、この池の周りには大勢の病人が集まっていました。イエス様は、大勢の病人の中に、38年もの間、病気で苦しんでいる人に目を留められました。そして、この人に、「よくなりたいか」と声をかけられました。しかし、この人の答えは、自分が池に入ることができないために癒されないという現状でした。彼は病気が癒されたいと願って、この池の周りにいたのですが、他の人が先に水に入ってしまうため、すでに癒されることを諦めていました。しかし、イエス様は彼に、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」とお命じになりました。すると、彼はすぐに直って、イエス様に命じられた通り、起きて、床を取り上げて歩きました。
彼は自分の病気が癒される方法は、池の水が動いた時に、誰よりも早く池に入ることだと信じていましたが、そのような言い伝えよりもはるかに優れたお方、まことの救い主がおられることを知るようになりました。
ヨハネの福音書5章10〜16節
10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」
11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」
12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」
13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないもっと悪い事があなたの身に起こるから。」
15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。
16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
(新改訳第三版)
この癒された人は、自分の病が癒されたので嬉しくて、イエス様に命じられたとおり床を取り上げて歩いていたのですが、その様子を見たユダヤ人の指導者たちは、「安息日に床を取り上げてはいけない」と注意をしました。安息日は、すべての仕事を休んで神様を礼拝する日です。ですから、床を取り上げて運ぶということも安息日の規定に反する行為として、ユダヤ人の指導者たちは注意をしました。
彼は指導者たちから罰せられることを恐れ、自分の身を守ろうとして自分を癒した人が命令したのだと言い訳をしました。しかし、彼は自分を癒してくださったのが誰かわからなかったので不安でした。
ところが、この後イエス様が再び彼を見つけて声をかけてくださったので、自分を癒してくださったのはイエス様だと知り、ユダヤ人たちに、イエス様が癒してくださったと告げました。そのため、ユダヤ人たちは、イエス様を安息日を破る者として迫害しました。
ヨハネの福音書5章17〜18節
17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
(新改訳第三版)
ユダヤ人たちは、安息日に仕事をしてはならないと決め込んでいたのですが、父なる神様は安息日といっても、すべての人に御目をとめてくださり、恵みを与えてくださいます。もちろん、病気で苦しむ人にとって、その病が癒されることは大きな恵みです。神様はその恵みを安息日だからといって止めることはなさいません。そのような神様の御愛と恵みをイエス様は、すべての人に見える形で表してくださいました。まことの神様であるイエス様は、人間にとって必要な安息が何であるのかを知っておられ、それを与えてくださるお方です。
しかし、ユダヤ人の指導者たちは、イエス様の言葉を受け入れることをせず、逆にイエス様が自分を神としていることに怒りを燃やして、イエス様を殺そうとしました。
マタイの福音書11章28節
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
(新改訳第三版)
イエス様はいつも変わることなく私たちの友として、大牧者として私たちを慰め、励まし、導いてくださいます。羊飼いが自分の羊を養い、緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴うように、私たちが疲れているのなら、御声をかけて休ませてくださいます。
律法に従って休む時、そこには本当の休みはありませんでした。私たちも、休んでいるように思えても、心に安息がないということはないでしょうか?本当の安息を得るには、自分で考えるよりも、私たちをお造りになった方に聞くことが最善です。私たちがどのように生きれば良いのか、創造主が一番よく知っておられます。そのお方が、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」とおっしゃっておられます。この招きに応えて、イエス様のもとで休ませていただきましょう。そうすれば、たましいに平安が与えられます。