2022年7月3日「パウロが求めたもの」木下淳夫 師

タイトルパウロが求めたもの
聖書2コリント12:14~18
説教者木下淳夫師

 今日は、「パウロが求めたもの」というテーマです。

 みなさんは、お客さんが来てくださるとき、どのような用意をしますか?その人が好きな食べ物とか、必要としているものは何かを聞いて、来てくださる方に喜んで欲しいと思うのではないでしょうか。

 使徒たちが活動した紀元1世紀頃は、現代のように簡単に旅行することはできませんでした。しかし、パウロは多くの犠牲を払っても、コリントの兄弟姉妹に会いに行きました。もちろんパウロは、お客さんとしてではなく、キリストの使徒としてコリントへ行きました。そこまでして、パウロが求めたものとは何だったのでしょうか?今日は、パウロが求めたもの、また、主が求めておられるものについて学ばせていただきましょう。

コリント人への手紙第二 12章14〜18節

14 今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。

15 ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身さえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。

16 あなたがたに重荷は負わせなかったにしても、私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます。

17 あなたがたのところに遣わした人たちのうちのだれによって、私があなたがたを欺くようなことがあったでしょうか。

18 私はテトスにそちらに行くように勧め、また、あの兄弟を同行させました。テトスはあなたがたを欺くようなことをしたでしょうか。私たちは同じ心で、同じ歩調で歩いたのではありませんか。

(新改訳第三版)

 結論から言うと、パウロが求めたものは、彼らの持ち物ではなく、彼ら自身です。この手紙では、エルサレムへの献金を用意して欲しいということを訴えていましたが、パウロ自身はコリントの兄弟姉妹に負担をかけたくはないと言っています。それは、コリントの信徒たちは、パウロにとって愛する子どもたちだからです。幼い子どもは、親の保護を受けて育ちます。そのように、パウロは自分にとっては子どものような存在であるコリントの信徒から、何かをもらおうとは考えていませんでした。それどころか、多くの犠牲を払って行くにもかかわらず、パウロは自分自身さえ使い尽くしてもかまわないという覚悟を持っていました。それほど、パウロはコリントの信徒を愛していました。

 しかし、パウロがいない間に入り込んだ人たちは、パウロが彼らから何も求めないのは、パウロがコリントの人たちを愛していないから、また、パウロ自身が使徒としてふさわしくないから、働きに対する代価を求めていないのだと吹聴しました。また、彼らは、パウロは悪賢くて、遣わした人を使って、だまし取ったているのだと、パウロを非難しました。そのような偽りに惑わされたコリントの信徒たちは、パウロが使徒であることを否定し、また、パウロの愛も疑いました。そのような信徒たちに、パウロは懸命に訴えます。自分がどれほど彼らを愛しているのか、よく思い出して欲しいと訴えました。パウロがコリントの様子を伝え聞いた時、どれほど心を痛めたことでしょうか。しかし、パウロの心は折れることなく、かえってコリントの信徒たちへの愛が燃え上がりました。

 私たちは、パウロがコリントの信徒をこれほど愛していることを、この手紙を通して知ることができます。しかし、この手紙は、パウロが聖霊様によって導かれて書いたものであり、聖霊様の働きによって、現代まで聖書として、神様のみことばとして伝えられたものです。そのように考えると、キリストの使徒パウロがコリントの人たちに伝えた愛は、パウロをお遣わしになったイエス様ご自身が、コリントの人たちを愛しておられること、さらに、私たちを愛しておられるということがわかります。このみことばを通して、主のみ声を聞かせていただくとき、イエス様がどれほど私たちを愛しておられるのか、また、私たちがどれほどイエス様の愛を疑い、イエス様を悲しませてきたのかということを思わされます。

 イエス様は私たちのためにすべてのものを捨ててくださいました。パウロが「私自身さえ使い尽くしましょう」と言ったように、イエス様は、ご自身のいのちまで十字架で捨ててくださいました。

コリント人への手紙第二 12章14節

私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。

(新改訳第三版)

 イエス様が、私たちに求めているのは、私たちの持ち物ではなく、私たち自身です。私たちが、真心からイエス様を主として心にお迎えし、愛することをイエス様は求めておられます。「私には何もない、私には何もできない」とおっしゃる方もあるかと思います。しかし、イエス様は私たちに何も負担をかけようとは思っておられません。ただ、イエス様と共にいて、重荷を抱えているのなら、その重荷をイエス様のもとに下ろし、イエス様のくびきを負って、イエス様と同じ心で、イエス様と同じ歩調で歩くことを求めておられます。

 この世は、キリストを信仰しても良いことはないとか、騙し取られているだけだという人もいます。しかし、イエス様が私たちのために、すべてを捨ててくださったことは真実です。十字架こそイエス様が私たちを愛してくださっていることのしるしです。

 イエス様は、私たちがイエス様を心にお迎えし、イエス様とともに生きることを求めておられます。そして、私たちがイエス様とともに歩むなら、イエス様は、私たちのたましいに失われることのない安らぎを与えてくださいます。