
タイトル | イエス様から目を離さない歩み |
聖書 | へブル12:2 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日は、新年最初の聖日礼拝ですから、初心に立ち返り、皆さんと一緒に、信仰をもって新しい一歩を踏み出していきたいと願っています。
へブル人への手紙12章2節
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
(新改訳第三版)
このみことばから、イエス様が信仰の創始者であり、完成者であることがわかります。信仰とは、父なる神様がおられること、神様が天地万物の創造主であること、また全能なるお方であることを信じるということです。また、心で信じるだけでなく、その神様を愛するということです。愛するというのは、好きという感情ではなく、神様を第一として従順に従うことです。
イエス様は世が始まる前から父なる神様とともにおられたお方です。どんなときでも父なる神様と一つであり、同じ心をもっておられたお方です。父なる神様が天地創造を創造されたときも、イエス様は「ことば」なるお方として、この世界を創造されました。このように、父なる神様と一つであるイエス様こそ信仰の創始者であるということができます。また、イエス様が人となってこの世に来られた時、イエス様は常に父なる神様を愛し、御心に従い続けておられました。イエス様は十字架の死にまで従ってくださいました。十字架に架けられるということは、父なる神様から呪われたものになること、一つであった神様と、引き離されて暗闇の中に落とされることを意味します。それでも、イエス様は、私たちを罪から解放し、永遠の滅びから私たちを救い、永遠のいのちを与えるために、自分から十字架にかかることをお選びになられました。この忠実さによって、贖いは完成しました。そして死に至るまで神様に忠実に従う信仰が完成されました。
私たちが創造主である神様を信じて、神様を愛し、神様に従おうとするとき、その手本が必要となります。「こうすれば神様は喜ばれるだろう」と、人間が考えても、それが本当に神様に喜ばれることとは限りません。世界中にたくさんの宗教がありますが、自分の体を傷つけたり、子どもをいけにえに捧げるという宗教が、旧約聖書の中にも登場します。そのような行いを、神様が喜ばれるはずはありません。
ですから、私たちは正しいお手本を見て、それに倣う必要があります。私たちが健全な信仰を持ち続けるためには、正しい信仰を全うされた方を手本としなければなりません。だからこそ、信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離してはいけません。聖書を通して教えられるイエス様の歩みを、しっかりと学び、イエス様の教えをしっかりと聞かなければなりません。
この世では、信仰深く見えても、実は信仰などない行いも存在します。そのような、イエス様を抜きにした信仰っぽい行いは、必ずどこかで無理が生じます。今までにも、この世との交わりを断って神様との交わりだけを求めた人たちがありました。そのような生活は一見すると敬虔に感じるのですが、主を愛し、隣人を愛するという、神様の御心を覚え、また、イエス様が人々に寄り添ってくださったことを覚える時、それが本当に神様に喜ばれる信仰とは言えないと、私は思います。神様を愛するあまり、だれかを犠牲にするようなら、それはイエス様ではなく、この世の何かを見て行動しているのではないでしょうか。
クリスチャンショップで、「WWJD」と書かれたアクセサリーを見たことがあるという方もいると思います。これは、”What would Jesus do?” の頭文字をとったもので、「イエス様ならどうなさるだろうか」ということをいつも覚えようとするものです。私たちは、熱心さのあまり、神様の御心から離れることがないように注意しなければなりません。そのために、いつもイエス様から目を離さないことです。
へブル人への手紙12章2節
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
(新改訳第三版)
このみことばをいつも心にとめて、イエス様を思い起こして一歩一歩信仰の歩みを進めてまいりましょう。