2022年6月12日「従うべき人はだれか」木下淳夫 師

タイトル従うべき人はだれか
聖書2コリント12:1~6
説教者木下淳夫師

 今日は、「従うべき人はだれか」というテーマです。

 イエス様を信じた人は、だれもが神様の子どもであり、イエス様の弟子です。ですから、イエス様に従うことこそ、信徒がなすべきことなのですが、イエス様は、私たちがこの世で生きていく上で、助けとなるように教会を与えてくださり、そこに指導者たちを任命してくださっています。ただ、この世では、教会にも間違った教えを持ち込む人たちが紛れ込んでくることも事実です。ですから、私たちはどのような人に従うべきなのか、しっかりと学び正しい道を歩みたいと願っています。

コリント人への手紙第二 12章1〜6節

1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。

2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。

3 私はこの人が、──それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、──

4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。

(新改訳第三版)

 コリント教会に入り込んだにせ使徒たちは、自分たちの知識や能力を誇り、自分自身を推薦して指導者の座に着こうとしていました。また、コリントの信徒たちは、そのような人たちを指導者として受け入れていました。ですから、パウロは、彼らが自分を誇ることに対して、本当の使徒として自分も誇るべきことがあることを示しています。ただ、パウロ自身は、自分の経験や与えられた権威を誇ることを、極力避けようと思っていました。なぜなら、人々がパウロについて見ること、パウロから聞くこと以上に、過大評価するといけないからです。それでも、パウロが自分の経験を語るのですから、よほどコリントの人たちの信仰が惑わされているということがわかります。

 さて、パウロがここで語っていることは、主の幻と啓示のことです。自分が学んできたことや、成果を誇ることはしません。ただ、主ご自身にお会いし、また、主が語られたことばを聞いたことを誇りとしました。

 パウロも、にせ使徒たちも、主のみことばについて語っているにもかかわらず、その内容が異なっていました。しかし、パウロが語ることが真実であるということを示すため、自分は第三の天、パラダイスに引き上げられ、主が語られるみことばを聞いたということを証しました。

 ただ、パウロは、このような考えられないような恵みを受けたのですが、あえて、「自分は」と言うことをせず、「あるひとりの人」の経験として、自分の経験を証しました。ここにも、パウロが細心の注意を払って、信徒がパウロを神様のような存在と考えないように、ただ、主ご自身だけを誇りとすることができるように、配慮していることがわかります。

コリント人への手紙第二 12章5節

5 このような人について私は誇るのです。
しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

(新改訳第三版)

 パウロは繰り返し、自分が誇ることは自分の弱さだと語ります。その弱さはキリストに従ってきたために受けた肉体の痛み、また、心の痛みから生じたものでした。だからこそ、パウロは自分の弱さをキリストのしもべとして忠実に奉仕してきたしるしとして誇りとしました。

 また、パウロは、信仰が弱り、霊の目がくもっている信徒たちに、くもった目でも見えるように、愚かなことと理解しながらも、自分が主から受けた特別な恵みを証し、この世の知識を誇りとする人が、主についてもっともらしく語っても惑わされないように注意を与えました。そして、どのような人を信頼すべきかということを教えました。主にお会いし、主のみことばを直接聞いてきた人たちを信頼するようにと導きました。

 私たちが教会の指導者として信頼すべき人、誇りとすべき人も同じです。私たちが従うべき人は、主イエス・キリストにお会いし、みことばを聞いてきた人たち、つまり使徒たちです。使徒たちが書き残し、聖書としてまとめられたみことばこそ、私たちが信頼して従うべきものです。聖書が長い年月の間、語り継がれているのは、主イエス様の証人たちが、自分の目で見、手で触れ、耳で聞いた主イエス様ご自身を証しているからです。それが真実だからです。

 聖書のみことばが真実かどうか疑う人がいます。しかし、そのような人たちに対して、パウロが今ここにいたなら、「私は真実を話している」と訴えることでしょう。

 指導者について、私たちが注意すべきことは、真実のみことばを曲げることなく、語っているかということです。聖書全体の教えに反した自分の主張を、聖書の教えのように語る人がいたとしたら、そのような人に従ってはいけません。さまざまな教えが入り込む現代です。私たちも、使徒たちが書き残し、現在まで語り継がれている聖書のみことばを誇りとして学びましょう。そして、自分自身も真実を語る指導者になって、人々を主イエス様の弟子として導いていきたいと願います。