タイトル | 一番すぐれているもの |
聖書 | 1コリント13:1-13 |
説教者 | 木下淳夫師 |
今日の箇所は、結婚式でも読まれる有名な箇所です。結婚式では、愛し合って結婚する新郎新婦に愛とはどういうものなのかということを短くお伝えするのですが、今日はキリストのからだの部分である信徒が、成長するために必要なものとして、パウロが教えている愛について、学ばせていただきましょう。
コリント人への手紙第一13章1〜3節
1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
(新改訳第三版)
この箇所は、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」ということを考えると、その理由がよくわかります。神様は、私たちが御心にかなう人に成長することを願っておられます。ですから、パウロは、神様が私たちの心をご覧になるのだから、見た目の行いがどれほど素晴らしくても、すばらしい能力を持っていたとしても、それを使う動機が、神様を愛すること、隣人を愛することでないなら、神様はお喜びにならないと教えています。
コリント人への手紙第一13章4〜7節
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
(新改訳第三版)
ここを見ると、愛はただ好きという感情ではないことがわかります。感情というよりも、人格を持った存在のように説明されています。ですから、この箇所は、よく「愛と書かれているところに自分の名前を入れて読んでください」と言われます。すると、自分は愛とは程遠いと思わされます。しかし、ここに記されている愛の性質を完全に持っている方があります。それが、イエス様です。イエス様は、地上を歩まれたとき、誰に対しても寛容で、どんな人でも受け入れてくださいました。病の人を見捨てることなく親切にしてくださいました。ねたむこともなく、自慢することもありません。いつも謙遜に、父なる神様の御心に従われました。イエス様が無礼を働かれたことなど、どこにも記されていません。どんな状況でも、自分の利益を求めることはありませんでした。パリサイ人や律法学者など、当時の指導者たちに妬まれ、迫害されましたが、彼らに対して怒ることはありませんでした。それは、イエス様が十字架にかかられたときでも、変わることはありませんでした。「父よ。彼らをおゆるしください。」と、彼らの悪を思わず、迫害する者のために、祈ってくださいました。常に真理を喜び、どんな苦しみをも耐え忍んでくださいました。
コリント人への手紙第一13章8〜12節
8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
10 完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
(新改訳第三版)
「愛は決して絶えることがありません」と宣言されています。
神様は人々にすばらしい賜物を与えてくださっています。しかし、どれほどすばらしい賜物、どれほど優れた能力、多くの財産であっても、それらは移り変わってしまいます。神様との交わりをする預言や異言であっても、いつまでも続くものではありません。なぜなら、人は神様のみもとに帰ったなら、預言や異言といった特別なコミュニケーション手段は必要なくなるからです。
パウロは、子どものときは、子どもとして行動していたけれども、大人になったら子どものことをやめたと言っているように、信徒が神様の御前に招かれるときには、地上で行ってきたような方法で神様との交わりを持つのではなくなると教えています。私たち人間が、造り主である神様の御前に出させていただくときに必要なこと、いつまでもすたれることがない大切なもの、それが愛です。愛そのものであるイエス・キリストです。
コリント人への手紙第一13章13節
13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
(新改訳第三版)
いつまでも残るものは、信仰と希望と愛であると教えられています。
イエス・キリストを信じて従う信仰。イエス・キリストの約束に対する希望。そして、イエス・キリストが与えてくださった愛。これらは、すたれることなく、いつまでも残ります。
みなさんは、何を第一にしておられますか。夢を叶えるということもよく耳にします。これも良い目標だと思いますが、その動機に愛がなかったらどうでしょうか?
自分が権力を持ちたい、財産を手に入れたいという動機で、自分勝手な夢を実現するために、与えられた知識や能力を使われても、他の人には迷惑でしかありません。しかし、愛が動機であるなら、人を傷つけることはありません。自分も成長し、他の人との交わりも深められ、お互いに成長することができます。そして、みんなが揃って、父なる神様の御前に進み出て、一緒に感謝を捧げることができます。
私たちは、一人で生きるように造られてはいません。お互いが愛し合い助け合うように造られています。その愛を神様は、イエス・キリストの恵みによって、私たちに与えてくださいました。
今は、身体的な距離を取らなければならなくなった時代です。そのようなときだからこそ、一番すぐれている愛、イエス・キリストご自身により、心を一つにしていただき、信仰と希望をもって励ましあってまいりましょう。