タイトル | 主を恐れることの大切さ |
聖書 | 箴言1:7 |
説教者 | 木下淳夫師 |
箴言1章7節
7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
(新改訳第三版)
「恐れる」ということは、怖がるという意味ではありません。畏敬の念を持つということです。主なる神様が存在すること、そして、主は偉大なお方であることを認め、強い敬意を持って自分から進んで服従することです。「怖がる」場合は、その存在から逃げようとしますが、ここで言われている「恐れる」ことは、逃げるのではなく自分から従います。
「知識」を得ることは、私たちの生活において重要なことです。知識が増えるなら、正しい判断をすることができます。その結果、平和な人生、豊かな人生を送ることができます。もしも、正しい知識を身につけていなかったら、自分の健康についても正しく管理することができず、人との交わりにおいても、良い関係をつくることができなくなります。
私たちは、普段の生活において、いろいろなところから知識を吸収することができます。しかし、すべてが良い知識というわけではありません。子どもたちが成長する中で、どんどん新しいことばを覚えますが、なぜか「どこでそんな言葉を覚えてくるの?」と思うような言葉も、吸収してきます。この世は、アダムが犯した罪の結果、悪魔が活動し、この世の権威を持つすることが許された世界になっています。ですから、人を傷つける言葉、自分を価値のない者だと思わせる言葉、神様はいないと思わせ、自分勝手に生きることを良しとするような言葉が、たくさん存在します。なにも警戒しないでこの世の情報を受け取り続けると、圧倒的に多い神様を認めない情報が私たちに入り込んできます。そして、心も考え方も支配されてしまいます。
ここで、「主を恐れることは知識の初めである。」というみことばに注目しましょう。主を認め、主に従わなければ、神様につくられた私たちが正しく生きるための知識を得ることはできません。「初め」とありますから、最初にすべきことであり、もっとも重要なことだということです。私たちに命を与えてくださった神様は、私たちのすべてを知っておられ、私たちに幸いを与えてくださいます。そのお方に従わないで、どうやって自分のことを知ることができるでしょうか?正しいことの基準を、どこに見出せば良いのでしょうか?創造主である神様がおられることを認めて、へりくだって従うことから、私たちは正しい知識、祝福された人生を歩むために必要な知識を得ることができます。
対照的に神様を認めない、自己中心な生き方をする愚かな者は、知識を得ることがありません。さらに、知恵と訓戒をさげすみます。
箴言において「知恵」は、擬人化されている箇所があります。その箇所を見るときに、知恵はイエス様を指していることがわかります。そして、神様は、すべての人が滅びないように、訓戒の言葉を与えてくださり、悔い改めて主に立ち返るように招いてくださいます。ですから、自分の罪を悔い改めることをせず、神の知恵であるキリストをさげすみ、拒否するなら、その人は永遠のいのちを得ることがなく、滅びに至ってしまいます。
私たちはこの一年、今まで経験したことのない試練に遭いました。この試練は、私たちの命と健康に関わる問題だけでなく、経済的にも、人間関係までも破壊するような大きな試練です。この状況は、まだ続くことが予想されます。そして、たくさんの情報があふれ、その中で何を信じれば良いのか、迷うことが多くなるでしょう。
しかし、もう一度「主を恐れることは知識の初めである」というみことばに立ち返りましょう。主イエス様が、いつもともにいてくださることを覚えて、イエス様のみことばに聴き従いましょう。イエス様が「わたしの愛の中にとどまりなさい」「互いに愛し合いなさい」とおっしゃったことを覚えて、もうしばらく続くと思われる困難な状況でも、互いに支え合って乗り越えてまいりましょう。