2023年1月1日「主は私の羊飼い」木下淳夫 師

タイトル主は私の羊飼い
聖書詩篇23:1
説教者木下淳夫師

 今年、貞光キリスト教会に与えられた聖句は、詩篇23篇1節のみことばです。

詩篇23篇1節

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」

(新改訳第三版)

 このみことばは、ダビデが書いた詩篇です。ダビデは少年時代ベツレヘムで、父エッサイの羊を飼っていました。私は、羊というと、のどかな雰囲気を感じてしまいます。そして、私が羊飼いと聞いて思い浮かべるのは、広い牧草地で、のどかに草を食べている羊を遠くでゆったりと見守っている人です。しかし、ダビデが羊飼いをしていた当時は、決してのんびり見守るということはできなかったようです。牧場として羊を飼う場所が整備されていませんので、羊飼いたちは餌となる草を探して、そこまで羊の群れを連れていかなければなりません。また、水も簡単に手に入る環境ではありませんから、羊を養うことはとても大変な仕事です。また、周りには羊を襲う獣もいましたので、羊飼いは群れを守るために、命の危険にさらされることもありました。また、主人の羊が獣に襲われてしまったなら、羊飼いたちが責任を負わされるということもありました。羊飼いがどれほど蔑まれていたのかということは、サムエルがエッサイのところに来た時のことを思い出すとよくわかります。サムエルはエッサイに、子どもたちを全員集めるようにと言われたにもかかわらず、エッサイは羊を飼っていたダビデを呼びませんでした。

 ダビデはそのような蔑まれた生活をしていたのですが、その中でも主との交わりを喜んでいました。ダビデは羊たちを餌場に連れて行きますが、その餌場を備えてくださる主に感謝していました。羊が獅子や熊に襲われることもありましたが、ダビデはそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出しました。獅子や熊がダビデに襲いかかってきたときには、そのひげをつかんで打ち殺していました。そのような命の危険からも主が救いだしてくださることを、ダビデは経験していました。

 ダビデは、この羊飼いの時の経験があったからこそ、イスラエルの王になった時にも、自分は主に助けられて生きてきたことを忘れることがありませんでした。羊が羊飼いに養われ、守られているように、ダビデは主に養われ、守られてきました。だからこそ、ダビデは「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と、宣言することができました。

詩篇23篇1節

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」

(新改訳第三版)

 私たちは、自分の力で生きているように思うかもしれません。しかし、天地万物の創り主である主が、私たちを養ってくださらなければ、私たちは生きることができません。また、休むことができません。

 私たちはこの世ではとても忙しく働かなければなりません。私も昨年4月からICT支援員をさせていただくようになって、ほとんど休みがない生活になっています。また、たくさんの人たちが多くの時間を労働に費やしています。学生も勉強にクラブ、塾など様々な活動で毎日が大忙しなのではないでしょうか。家にいても家事は山のようにあり、1日があっという間に過ぎてしまいます。社会的には自由であるはずの人でも、これほど休む間もないのですから、奴隷には当然休みがありません。奴隷になると、体を休ませることができないのなら、魂が神様のもとを離れ、罪に捕らわれて奴隷になったら、魂に休息はありません。人間は肉体の休息だけでなく、魂の休息も必要です。魂が疲れ果ててしまうと、希望のない暗闇の人生になってしまいます。自分がどこへ向かって生きているのかわからなくなります。実はそのような暗闇の人生を歩んでいる人は大勢います。また、自分がその暗闇に入ることすらも気づかないほどに、魂が疲れ果てています。

 そのような暗闇から私たちを救ってくださったのが、私たちの主イエス・キリストです。ダビデが私の羊飼いと呼んだお方です。イエス様は、今ダビデだけでなく、私たちの羊飼いとして、私たちを養ってくださいます。今、日本は経済的には格差が激しくなり、多くの人にとって非常に厳しい状況です。コロナ禍の影響で、人との交わりができないこともあります。しかし、主がともにいてくださるのなら、乏しいことはありません。私たちを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに連れて行って休ませてくださいます。そして、主は私たちの魂に命の光をともしてくださり、希望を与えてくださいます。暗闇の世に光を灯して、正しい道を教えてくださいます。

 新しい年、私たちとともに歩んでくださる主を覚えて、主に信頼して勇気と希望を持って歩んで生きたいと願います。