タイトル | キリストの打ち傷によって |
聖書 | 1ペテロ2:18~25 |
説教者 | 木下淳夫師 |

今日は、困難な中で信徒はどのように行動すべきなのかということを学ばせていただきます。特に、ペテロはイエス様が模範を示されたことを思い起こさせようとしていますので、私たちもしっかりとイエス様が、私たちのためになしてくださったことを思い起こして、今自分がなすべき行動を確認してまいりましょう。
ペテロの手紙第一2章18〜20節
18 しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。
19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
(新改訳第三版)
ペテロは、この手紙を読んでいる、しもべたちに対して主人に従うように命じています。しもべからすると、主人が善良で優しい主人なら、従いたくなりますが、横暴な主人だと逆らいたくなります。しかし、ペテロは横暴な主人に対しても、尊敬の心を込めて服従するように命じています。
なぜなら、神様は、信徒がイエス様にならって忍耐することを喜ばれるからです。信徒には自由があります。その自由は、神様が与えてくださいました。そして、神様は、その自由を用いて、イエス様に従うということを願っておられます。その選択によって、苦しむことになるとわかっていても、イエス様にならう者として、苦しみを受けて耐え忍ぶことは、神様が喜ばれることであり、また、神様はそのような信徒に忍耐する力も与えてくださいます。
ペテロの手紙第一2章21〜25節
21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
(新改訳第三版)
ペテロは、イエス様が残された模範を、思い起こさせます。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」(22〜24)
信徒もこの世から不当な扱いを受けることがあります。しもべともなると、なおさら主人から不当な扱いを受けることが多かったでしょう。しかし、イエス様は、まことの神様なのに、また、人々を救うメシアであったのに、ののしられ、苦しめられました。それでも、イエス様は、ののしる人に、ののしり返すこともせず、おどすこともせず、ただ、正しくさばきをされる父なる神様にすべてをお委ねになり、自分から十字架の上で、すべての人の罪をその身に負ってくださいました。
そして、このイエス様の行いは、人々が罪を離れ、義のために生きるためであると教えられています。罪を離れなければ、人間は罪の奴隷として、罪を犯し続けなければなりません。そして、罪を犯し続けたなら、最後の審判で有罪とされ永遠の滅びに定められます。ですから、イエス様は、私たちを自由にするために、そして、義のために生きる者にするために、私たちの罪をすべてその身に負って、罪の罰を私たちの代わりに受けてくださいました。そのイエス様の打ち傷のゆえに、私たちはいやされました。
そして、私たちは、自分が何をしているのかわからないまま罪を犯していた愚かな者でしたが、たましいの牧者であり監督者である父なる神様のみもとに立ち返ることができました。そして、真理の光によって、正しい道を教えていただき、迷うことなくいのちと祝福の道を歩むことができるようにしていただきました。だからこそ、イエス様の恵みを知った私たちは、苦しむことがわかっていても、悪に対して悪で対抗するのではなく、イエス様が模範を示してくださったように、すべてのさばきを神様に委ねて善を行うことです。そして、隣人を愛し、敬って平和をつくようにと命じられています。
ここまで学んできた、ペテロが教えるこの世に対処する方法をまとめます。まず、信徒は神の民であり、この世に支配されることはないという真理を確認します。この世の民ではありませんが、この世で生きる間、人間が作った制度に従うように命じています。それは、イエス様がこの世の制度に従ってくださったからです。そして、そのイエス様の行いにならって、どんなときでも、人々に対して善を行うことです。私たちの良い行いによって、神様が人々を救いに導いてくださるからです。
確かに苦しむことがわかっていながら、イエス様のゆえに、苦しみの道を選ぶことは簡単なことではありません。しかし、私たちが罪を離れ、義のために生きることができるようにするために、イエス様は苦しみの道を選びとってくださり、十字架の死にまで従い通してくださいました。そのイエス様の打ち傷によって、私たちもいやされ、自由を与えられたこと、永遠の希望を与えられたことを覚えて、試みの時も忍耐してまいりましょう。
今、私たちはこの世で生活はしていますが、私たちのたましいは父なる神様が監督してくださり、牧者として守っていてくださいます。ですから、なにも心配はありません。神様の喜びを、私たちの喜びとして、良い行いをし、イエス様が、すべての人を罪から救い、義のために生きるために、苦しみの道を選びとり、十字架でいのちを捨ててくださったこと証ししてまいりましょう。